ジェルメーヌ・ド・フォワ(2)
文字数 1,830文字
ジェルメーヌ・ド・フォワは1505年にアラゴン王フェルナンド2世と結婚します。この時ジェルメーヌは17歳、フェルナンド2世は53歳でした。ジェルメーヌはナバラ女王レオノールの孫であったため、この結婚でフェルナンド2世はナバラ王位を主張して、1515年に征服が完了します。
未亡人となったジェルメーヌ・ド・フォワは28歳でした。カスティーリャとアラゴンの王位は娘のファナが継ぐ予定でしたが、ファナが夫の浮気と死で精神錯乱になっていて幽閉され、女王ファナがまだ生きている時に長男のカルロス1世が共同統治でスペイン王となり、1517年にネーデルラントからスペインにやってきます。
これは絶対ジェルメーヌが誘惑したのです。カルロス1世がスペインに来たのは17歳の時、外国育ちで右も左もわからない若い王は、いくら元王妃でも未亡人になって立場が弱くなったジェルメーヌにとって格好の獲物です。再び権力を手に入れるチャンスと思い誘惑したのでしょう。
カルロスはジェルメーヌをヨハン・フォン・ブランデンブルク・アンスバッハ(アンスバッハ辺境伯フリードリヒの息子でプロイセン公アルブレヒトの弟)と結婚させることにし、2人はバルセロナで式を挙げた。1523年、2人はカールによりバレンシア副王とされた。
カルロス1世も馬鹿ではない、義理の祖母と関係を持って私生児まで生まれてしまったから、このまま関係を続けたら自分の立場が危ないと思い、ジェルメーヌを適当な男と結婚させてバレンシア副王の地位を与えたのでしょう。
アラゴン王妃ジェルメーヌ・ド・フォワは残酷なまでに反乱の主導者を抑圧し、このことはカルロス1世への権力集中を加速させた。ジェルメーヌ・ド・フォワは100人以上の死刑状に署名したとされており、800人もの死刑が行われた可能性がある。
政略結婚はバルセロナ朝のアラゴンでも盛んに行われていました。私の弟マルティンの子マルティーノはシチリア女王と結婚してシチリア王位を手に入れ、後にナバラ王女とも結婚しているのでその間の子が育てば、アラゴン、シチリア、ナバラの3つの王冠を手に入れていたはずです。でもそれは守るべきルールを守った上での政略結婚です。バルセロナ朝が途絶えて、アラゴンはもうアラゴンではなくなり、力づくや狡猾さ、陰謀などで生き残った者が権力を握り、残酷になっていったような気がします。
1526年にジェルメールはヨハンと死別したため、今度はカラブリア公フェルナンド(イタリア名フェルディナンド、フェルナンド2世が廃位したナポリ王フェデリーコ1世の王太子だった)と3度目の結婚をした。ジェルメールはカラブリア公と共に引き続きバレンシア副王を務め、2人は芸術と音楽の後援者となった。1538年にジェルメーヌは没するが、その後もカラブリア公は1550年の自身の死まで副王を務めた。死後はバレンシアの王立聖ミゲル修道院に埋葬された。