クラウディオス・プトレマイオス(2)
文字数 939文字
「カノポス碑文の写し」という、プトレマイオスの生涯の時期の特定に使えそうな資料もあるが、真正なものであるかどうかが疑わしい。カノポス碑文の写しは、アントニヌス帝統治10年目の年(147年)に、当時ナイル川の河口にあったカノポスでプトレマイオスが天体観測記録を「救い主」に捧げるといったことが書かれている。カノポス碑文中のデータは『アルマゲスト』中にあるデータと同一である。
「クラウディオス・プトレマイオス」という名前の「プトレマイオス」の部分はヘレニズム時代のエジプト人の名前であることから、ギリシア系だと推測されている。「クラウディオス」の部分はローマ人の名前で、彼がローマ帝国人で、ローマ皇帝が彼の先祖の誰かに恩恵として「クラウディオス」の氏族名を与えたことを示している。なお、そのローマ皇帝はおそらくクラウディウスかネロである。ただし、科学史家カッツが、一般論としてプトレマイオスなどのアレクサンドリア建設から数百年たった後の数学者たちの場合、ギリシア系であるか否かの判定は難しいと述べているように、この推測には若干の不確実性はある。
10世紀イスラーム圏の地理学者マスウーディーは、「クラウディオス」をクラウディウス帝の子孫の意味であると信じる者がいると述べる。マスウーディーはまた、この天文学者がプトレマイオス王朝の王統とつながりがあるという説に反論している。9世紀イスラーム圏の天文学者アブー・マアシャル・バルヒーは『テトラビブロス』の著者「プトレマイオス」がプトレマイオス王朝の王のひとりであると書いたが、この記述は混同によるものである。