カスティーリャ王ペドロ1世(5)
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モンティエルの戦いは1369年の3月14日に行われた。交戦勢力はペドロ1世側がカスティーリャ王国とグラナダ王国で指揮官はペドロ1世、戦力は装甲兵士3,000と軽装騎兵1,500に対してエンリケ側の交戦勢力はカスティーリャ王国とフランス王国、指揮官はトラスタマラ伯エンリケとベルトラン・デュ・ゲクランで戦力は装甲兵士3,000であった。
ペドロは3月13日、サンティアゴ騎士団が支配するモンティエル砦に宿営した。一方のエンリケは行軍中に数多く放っていた斥候から、いち早くペドロの軍の接近を察知していた。ナヘラの戦いで奮闘しエンリケ軍内で重きをなしていたフランス人騎士ベルトラン・デュ・ゲクランは、「敵がこちらに気がつく前に急襲して不意を突くべきだ」と軍議で主張し、彼の意見が採択された。
翌朝、緩慢な行軍を開始したペドロの軍の先鋒にエンリケ軍が突如として襲いかかった。ペドロの軍に多くのユダヤ人や異教徒が含まれていることを理由に、ゲクランは「捕虜をとるべからず」と指示しており、ペドロ軍の先鋒はほとんどが戦死した。
先鋒の壊滅に驚いたペドロはただちに後衛に全速前進を命じ、両軍はモンティエル付近で本格的に激突した。ペドロの軍は数においてエンリケ軍に勝っていたが、部隊が分散していた上に不意を突かれたこともあり、次第に戦況はエンリケ軍の優位に傾き始めた。配下の進言を容れたペドロはわずか11人の側近と共にモンティエル砦に逃げ込んだが、残された兵は戦い続けた。ユダヤ人の兵士は早々に戦意を喪失したが、ポルトガル人やムーア人の兵は激しい抵抗の末に多くが討ち取られた。
エンリケとゲクランはペドロが逃げ込んだモンティエル砦を包囲した。忠誠を誓うサンティアゴ騎士団と共に籠城の構えを見せるペドロに対し、ゲクランがエンリケの使者として送り込まれた。ペドロは傭兵隊長であるゲクランを買収しようと、金貨20万枚とソリア、アルマサン、アンティエンサなどの町々と引き換えに裏切りを持ちかけた。しかしゲクランはこの誘いをエンリケに密かに知らせ、ペドロ側よりより多くの報酬の約束を引き出すと何食わぬ顔で城内に戻り、ペドロの取引に応じる、と答えた。
3月23日の夜、ゲクランは城外の自らのテントにペドロを招き入れた。そこにはエンリケが待ち構えていた。14世紀のカスティーリャの歴史家ロペス・デ・アヤラの記述によると、異母弟のペドロ王と長い間会っていなかったエンリケはテントに入って来たペドロ王に気づかなかったという。ゲクランの配下が『この者が閣下の敵ですぞ』とささやき、ペドロ王が『余がそなたの敵だ』と言ってようやく異母弟を認識したエンリケは短剣で王の顔に切りつけ、倒れた後も何度も刺して殺害した。遺体は3日間野晒しにされて辱められた。ペドロはモンティエルで戦死したという説や、捕えられて処刑されたという説もある。