初代レノックス公爵エズメ・ステュワート(1)
文字数 970文字
スコットランド王ジェームズ6世の寵臣。カトリックとしてプロテスタントの摂政第4代モートン伯爵ジェイムズ・ダグラスと対立し、1581年にモートン伯を処刑に追い込んで権力を握ったが、その翌年にプロテスタント貴族がリヴェン拉致事件を起こしたため、フランス亡命を余儀なくされた。
フランスで育ったが、フランス・カトリック指導者ギーズ公アンリ1世の後援を受け、プロテスタントのスコットランド摂政第4代モートン伯爵ジェイムズ・ダグラスを排除する目的で1579年にスコットランドに帰国した。
当時のフランスではカトリックとプロテスタントの争いが激しく、1563年にはギーズ公アンリ1世の父フランソワが暗殺され、アンリは父を暗殺したプロテスタント側のコリニー提督への憎しみを募らせていました。そして1572年の8月にナバラ王アンリとフランス王女マルグリット(マルゴ)の結婚式のためにパリに多くのプロテスタント貴族が集まり、ギーズ公アンリ1世の軍隊がコリニー提督などプロテスタント貴族を襲って虐殺しました(サン・バルテルミの虐殺)命令を出したのはカトリーヌ・ド・メディシスとも言われています。