ヴェンツェル(2)
文字数 1,983文字
ヴェンツェルは1383年に死去した同名の叔父ヴェンツェル1世からルクセンブルクを受け継いだが、1388年にルクセンブルクをヨープストへ借金の抵当として渡してしまった。以後ルクセンブルクは他国の人間に転売され続けた末にルクセンブルク家から離れた。
それだけでなく、ボヘミアでも失政を重ねた。1393年、ボヘミアに司教座を設置しようとしてプラハ大司教ヤン・イェンシュテインと対立し大司教を投獄、すぐに釈放したが側近に拷問を加え、大司教総代理のヤン・ネポムツキーを殺害する事件を起こした。
数か月後に末弟ヨハンの尽力で釈放されたが、1396年にヨハンが死去、代わりにジギスムントを頼りにしたが、ハンガリー王の彼にはボヘミアへ介入できる暇がなく、貴族層の要求でヴェンツェルは高官の任命や地方の裁判権を上級貴族へ明け渡し、王権を衰退させた。
ローマ王廃位後もボヘミアの混乱と一族間の対立を収められず、1402年に対立していたジギスムントの手により再び監禁、ジギスムントと懇意にしていたハプスブルク家の人質としてオーストリアのウィーンへ移送される有様だった。
教会大分裂終息のため公会議の提案・実現が近付く中、ボヘミア王としてウィクリフの思想を支持するヤン・フスとその支持者を保護したが、1403年にプラハ大司教に就任したローマ派のズビニュク・ザイーツがウィクリフ派(後のフス派)を摘発し始めると、1408年7月にザイーツへ圧力をかけプラハに異端は存在しないと虚偽の発表をさせた。
これにはピサ教会会議開催に合わせた政治的思惑が絡んでおり、ヴェンツェルは教会会議を中立という形で支持する見返りにローマ王復帰を約束させ、教会会議と手を組む関係上国内に異端がいるのは都合が悪いため、ウィクリフ派には見て見ぬふりを決め込んでいたのである。プラハ大学にいるウィクリフ派が中立を支持していたという事情もあり、大学の支持を背景に中立を貫く計算も働いていた。
ヴェンツェルがウィクリフの神学を理解して共感していたとは思えない。ただ自分の政治的立場から見て見ぬふりをしたのだろう。余が南フランスを巡る争いでトゥールーズを支持したのも、トゥールーズ伯と親戚関係にあったからで、カタリ派の教義に理解を示したわけではない。それなのにカタリ派に味方したということで教皇に破門されてしまった。
だが、ザイーツ大司教はローマ教皇グレゴリウス12世支持を表明、ウィクリフ派の牙城と化したプラハ大学と対立、プラハ大学内部でもボヘミア外の教授・学生などで構成された「ドイツ国民団」がボヘミア出身の「ボヘミア国民団」と対立していた。ヴェンツェルは1409年にクトナーホラでボヘミア国民団に有利な裁定を下し、反発したドイツ国民団を追放(彼らは後にライプツィヒ大学へ移る)1410年にウィクリフ派の台頭を恐れたザイーツが亡命して表面的にボヘミアは平穏になった。同年にループレヒトが死去、それに伴いジギスムントとヨープストがローマ王に立候補したが、翌1411年にヨープストも亡くなったためジギスムントがローマ王に選出された。