ジェームズ1世(イングランド王)(10)
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ジェームズ1世はエリザベス体制を継続するという暗黙の条件でやってきていたため、ソールズベリー伯やベーコンを助言者として重用し続けた。ただしこの時、ソールズベリー伯などジェームズ1世によって重用されたり援助した者の多くは貴族院での仕官だったため、庶民院議員だった枢密顧問官も叙爵で貴族院へ移動、庶民院で国王側の者が少なくなった。当時、貴族院と庶民院はそれぞれその院内の者しか発言権がなかったため、後々になってジェームズ1世は議会に対して不利になっていく。
ただ、ジェームズ1世は議会を無視して王権を振るった印象が強いが、イングランド王位継承直後は「議会との協調」を発言し、エリザベス1世に比べても議会を開催した回数は少なくなく、8会期(36ヶ月)行っている(1604年3月から1611年2月、1614年4月から6月、1621年1月から1622年1月、1624年2月から1625年3月)しかし国王と議会は相互不信から協調できず、議会は自己権利主張と国王側近の告発が主な活動になり、国王の財政・外交政策も批判した。対するジェームズ1世は国王大権を侵害していると議会を非難して解散、両者の対立で成果は上がらなかった。
1604年、ジェームズ1世はハンプトン・コート宮殿にイングランド国教会やピューリタンなど宗教界の代表者を招いて会議を行った(ハンプトン・コート会議)この中でジェームズ1世は、カトリックとピューリタンの両極を排除することを宣言したが、これによりカトリックとピューリタンの両方から反感を買うことになった。一方でイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けたため、この会議でスコットランドではカルヴァン派の長老派、イングランドでは国教会とそれぞれ違う宗教を認めた。ただしハンプトン・コート会議そのものはジェームズ1世とイングランド国教会による出来レースであり、この会議の中でピューリタン側の主張が認められたのは欽定訳聖書の出版のみであった。その他については、ピューリタンを押さえ込む決定ばかりであった。というのも、そもそもジェームズ1世はローマ・カトリックの環境で育った根っからのカトリック主義者であった。