ティコ・ブラーエ(17)
文字数 1,000文字
1588年にフレゼリク2世が死んだ時、その息子で後継者であったクリスチャン4世はまだ11歳であった。彼の戴冠式が行われる1596年まで、摂政会議が代わりに統治することが決定された。この会議の長クリストファ・ヴェルキンドーフはかつて衝突して以来ティコ・ブラーエを嫌っており、デンマーク宮廷におけるティコの影響力は徐々に低下した。
ティコはヴェン島における自身の遺産が危機に晒されていることを感じ、太妃ソフィーにアプローチをかけ、彼女にヴェン島の資産をティコの後継者に与えるとした無き夫フレゼリク2世の約束を文書として残すように依頼した。だが、彼は幼い新王が科学よりも戦争に大きな興味を抱いており、また父親の約束を維持する意思が無いことを悟った。
ティコは貴族層に属しており、ルター派内の文派であるフィリップ派(フィリップ・メランヒトンの信奉者たち、穏健ルター派)に共感を覚えていることが知られていた。そのため彼は新たな王の恩寵を受けることはできなかった。
ティコの敵にはヴェルキンドーフに加えてさらに個人的にティコ・ブラーエに不満を持っていた侍医のピーダ・セヴリーヌス、ティコのフィリップ派への共感と、(教会の裁可を受けることなしに行っていた)医学と錬金術の探求故に、また彼がヴェン島の現地聖職者に洗礼の儀式でのエクソシスムを禁止していた故に、彼が異端であると疑う純正ルター派の司教たちがいた。ティコ・ブラーエに向けられた非難の中には、彼がロスキレの王室礼拝堂を適切に維持できなかったことや、彼がヴェン島の農民に対し残酷であり搾取を行ったことなどがあった。