ジェームズ1世(イングランド王)(18)
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議会解散後はスペインとの関係を深めて対処しようとしている。チャールズとスペイン王女マリア・アナとの政略結婚がその一環であり、持参金としてプファルツ回復を図り、交渉が難航する中で1623年2月にチャールズとバッキンガム公が勝手にスペイン旅行へ出かけたため、交渉どころではなく息子の安全と帰国を願う日々を送った。
一方チャールズとバッキンガム公はスペインと直接交渉して結婚を実現させようとしたが、半年も時間を費やした末に失敗、9月に帰国してからは反スペインと化し、2人でジェームズ1世に戦費調達のため議会招集を要求した。ジェームズ1世は病気と老齢で戦争にも議会招集にも消極的だったが、2人に押し切られ1624年2月に議会を招集した。
議会では30万ポンドの課税を認められたが、使途は戦争に限ると条件を付けられ、外交にも議会の意見を受け取るという譲歩を余儀なくされた。とはいえ議会との関係はこれまでより良好で、ジェームズ1世にとってむしろ好戦的なチャールズとバッキンガム公こそが脅威となっていた。
バッキンガム公は反戦派のミドルセックス伯を議会に弾劾させ失脚、スペイン包囲網形成のためフランスの同盟を計画、フランスと交渉して王女アンリエット・マリーをチャールズと結婚させることを約束した。しかし内容はイングランド国内のカトリック教徒に寛容を与えるなどカトリックに譲歩したものだったため、当初反スペインだった議会に人気があったバッキンガム公は不信を抱かれた。同年末に成立したフランス軍事同盟に基づいてイングランドは遠征軍を派遣したが、あくまで戦争に反対するジェームズ1世は軍にスペイン領通貨を禁止、それを知ったフランスが自国のイングランド軍上陸を禁止、行き場を失った軍はオランダで疫病にかかり自滅、英仏同盟は不安定になっていった。他の出来事としては、議会の反独占運動の成果として専売条例の成立が挙げられる。