マティルダ・オブ・イングランド(4)
文字数 1,128文字
マティルダについての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
スティーブンを戴く国王派はすでにイングランド全土でその権威を失っていたが、マティルダを戴くアンジュー伯派もまた他方を制圧するだけの力がなく、以後の内戦は泥沼化したまま年月を費やした。1147年にグロスター伯が死ぬと、強力な支持者を失ったマティルダは翌1148年2月にフランス・ルーアンに帰ることを余儀なくされる。1151年には夫も死去し、これでアンジュー伯派の力は著しく衰えてしまう。
私の娘ヨランドは私の死後アンジュー家に嫁いでいます。この時代のアンジュー伯と直接の血の繋がりはありませんが、アンジューはフランスの中でも重要な場所でした。
しかしマティルダの長男アンリが成長するとともに、再びアンジュー伯派は力を得はじめた。アンリは父が征服したノルマンディー公位を得たのを皮切りに、父の死後にはアンジュー伯位襲爵、婚姻によって妻アリエノール・ダキテーヌ公領、ガスコーニュ公領、ポワチエ伯領なども得て、フランス国土の半分にも及ぶ一大勢力を築くと、1153年1月に大軍を率いてイングランドに上陸した。対するスティーブンは1152年に王妃を、1153年に長男ユースタスを失い意気消沈していた。そして双方で妥協して(ウォーリングフォード協定、ウィンチェスター協定とも)、生涯にわたってスティーブンの王位を認めるかわりに、自らがイングランド王位継承者となることを認めさせた。スティーブンは翌1154年に死去し、約束通りアンリがヘンリー2世としてイングランド王に即位、ここにプランタジネット朝(アンジュー朝)が始まる。
若いアンリが広大な領土を手に入れて大軍で攻めて来たから、スティーブンはもう勝ち目がないと思ったのでしょう。なんだか気の毒です。
マティルダはフランスに留まったままそのすべてを見届け、1167年にひっそりとこの世を去った。
傲慢で気性が激しい上、ドイツ育ちでイングランドに馴染みが薄いという欠点で内乱ではイングランドで支持を得られず、諸侯やロンドン市民から嫌われて女王になるチャンスを逃した。それがためイングランドで女王は忌避され、1553年にテューダー朝のメアリー1世が即位するまで女王は誕生しなかった。一方でルーアンで身を引いた後も息子の行く末を見守りながら、ヘンリー2世に帝王学と人心掌握術を教え、大法官トマス・ベケットのカンタベリー大司教任命に反対するなど息子に忠告している。また息子の嫁アリエノールにも自分と同じ資質を見出し、彼女にも政治思想で影響を与えたとされる。
マティルダはイングランドの歴史を大きく変えたようです。次回からアンジュー伯兼メーヌ伯のフルク5世について調べてみます。
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