ヤン・フス(3)
文字数 1,189文字
それまでは大司教のズビニュク・ザイーツが個人的な恨みでフスやウィクリフを異端だと教皇のアレクサンデル5世に訴えて異端にされてしまったのが、大司教もアレクサンデル5世も1411年に亡くなって別の問題が起きるわけです。
1411年にアレクサンデル5世の後を継いだ対立教皇ヨハネス23世は、グレゴリウス12世を庇護するナポリ王ラディズラーオ1世を制圧するために十字軍教会を派遣した。十字軍の遠征費用を賄うため、教会は免罪符の売買を始めた。プラハでも、免罪符の説教者は人々を教会に集め、寄進を勧めた。
フスは、ウィクリフの例を出して免罪符に反対し、有名な改革論を書いた。1412年に、フスが発表した論文によって論争が引き起こされた。その論文は、ウィクリフの著書の最終章とフスの論文からの引用だった。ウィクリフとフスは、教会の名のもとで剣を挙げる権利は教皇にも司教にもなく、敵のために祈り、罵るものたちに祝福を与えるべきであると主張した。人は真の懺悔によって赦しを得、金では贖うことはできないのである。この主張のため、フスは大学に留まることができなくなった。
民衆は、詐欺的な姦通者と聖職売買者の集まりのようなローマ教会よりも、フスに従うべきだと考えた。神学部の学者たちはフスの主張に反論したが、人々はヴォク・ヴォクサ・ヴァルトシュテインによって導かれ教皇の教書を焼き捨てた。説教の途中で説教者をはっきりと否定し免罪符を欺瞞と言った下層階級出身の3人の人が斬首された。かれらはフス派の最初の殉教者だった。
神学部はフスに司祭の試験のために、演説をし教義を提示することを要求したが、彼は拒否した。学部は55の論文を新たに異端と宣告し、フスの幾つかの論文も異端に加えた。ヴァーツラフ4世はこれらの論文を教えることを禁止したが、フスと大学のどちらが正しいとしたわけでなく、論文の異端性を最初に証明することを要求した。