カスティーリャ王ペドロ1世(4)
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カスティーリャ王国では「残酷王」「正義王」の呼び名で知られるペドロ1世と、異母兄のトラスタマラ伯エンリケの間で内紛が勃発した。1366年にフランス王国の支援を受けたエンリケがペドロの廃位を宣言し、第一次カスティーリャ継承戦争が始まった。
カスティーリャの王位継承はちょうど百年戦争の真っ最中だったフランスとイングランド、そして他の国や諸侯も加わり、大規模な戦争になってしまいました。アラゴンは私の父ペドロ4世が長年カスティーリャのペドロ1世と戦争をしていたため、ナヘルの戦いでは1,000人の兵を出してエンリケ側で戦っています。
1367年、アキテーヌを治めるイングランド王国のエドワード黒太子の支援を受けたペドロは、エンリケが率いるカスティーリャ・フランス連合軍をナヘラの戦いで破ったが、エンリケはフランスに亡命して抵抗を続けた。
ペドロは黒太子の支援を受ける際、傭兵の報酬や遠征費の支払いと領土の割譲を約束していたが、ナヘラで勝利した後もこの約束を果たそうとしなかった。黒太子は赤痢に感染していたこともあり、この背信行為を受けて軍をアキテーヌに引き揚げた。
黒太子にしてみれば、ペドロへの義理やエンリケへの憎しみはなく、ただ報酬や領土が目的で支援していたわけなので、それが得られなくて怒ってさっさと帰ってしまったというわけですね。赤痢に感染したという理由もありますけど。
1368年9月、エンリケが再びカスティーリャ入りすると、首都ブルゴスがエンリケを王として認め、コルドバ、パレンシア、バリャドリッド、ハエンの諸都市が続いた。イベリア半島北西部のガリシアとアストゥリアスはペドロの側に残った。エンリケがトレドに進軍すると、アンダルシアに退却中だったペドロは決戦を決意して引き返した。
モンティエルの戦いでの交戦勢力はペドロ1世側がカスティーリャ王国とグラナダ王国で指揮官はペドロ1世、戦力は装甲兵士3,000と軽装騎兵1,500、エンリケ側はカスティーリャ王国とフランス王国、指揮官はトラスタマラ伯エンリケとベルトラン・デュ・ゲクラン、戦力は装甲兵士3,000であった。
ベルトラン・デュ・ゲクランはナヘラの戦いで捕虜になりますが、他の捕虜となった貴族や装甲兵士たちと同じように身代金を払ってもらい戦列に復帰します。ゲクランの場合はシャルル5世が莫大な身代金を立て替えたようです。