ジャンヌ・ド・ナヴァール(3)
文字数 1,507文字
ジャンヌ・ド・ナヴァールについての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
1413年に夫ヘンリー4世が亡くなった後も、ジャンヌは継子ヘンリー5世から慕われ大切にされていました。けれども1415年に百年戦争が再開されると状況は変わってきます。
1415年に百年戦争が再開されると、アジャンクールの戦いでフランス軍がイングランド軍に大敗した。
アジャンクールの戦いは1415年にフランスのアジャンクールで行われた戦いで、ヘンリー5世の率いるイングランド軍(7千名)が長弓隊を駆使して数に勝るフランス諸侯軍(2万名)の重装騎兵を破った戦いとして有名である、と書いてありました。
フランスはまたイングランドのロングボウ(長弓)に負けているのか。
フランス側で参戦していた娘マリーの夫アランソン公ジャン1世が戦死、次男のアルテュール(後のアルテュール3世)が捕虜になりイングランドへ送還される不幸にも遭遇している。
え、アルテュール・ド・リッシュモンまで捕虜になってしまうのですか?
アジャンクールの戦いの時リッシュモンは22歳で参戦、負傷してイングランド軍の捕虜となり1420年に解放され、トロワ条約を承認するように兄のジャン5世を説得しています。
ヘンリー4世の王妃だったジャンヌの実の子リッシュモンを5年間も捕虜にしていたとは・・・幼い頃に生き別れになった我が子が捕虜になってイングランドに来るなんて、ジャンヌの気持ちを考えたらやりきれないです。
でもまあリッシュモンは無事釈放されたからよかったではないか。
釈放されるのが当たり前です。王妃の実の子ですよ。5年間も捕虜にするなんて、イングランドは本当に人でなしの国です。
1419年になるとジャンヌの処遇も大きく異なり、ヘンリー5世の弟・ベッドフォード公ジョンの命令により、妖術に凝って王の殺害を謀ったとして逮捕、財産を没収されイングランド南部ペヴンジーに幽閉された。
これは酷い、酷過ぎます!もしかしたらジャンヌは自分がヘンリー4世と結婚して王妃になれば子供たちを守れるかもしれないと考えて結婚に応じたかもしれない、それなのに自身が幽閉されてしまえば人質と同じです。子供たちは下手なことはできません。そのような意図がなくても、イングランドのやり方はあまりにも酷過ぎます。
ベッドフォード公ジョンはジャンヌ・ダルクの火刑にも関わっています。ここに詳しくは書けませんが・・・
ジャンヌは後にヘンリー5世により釈放され、義理の孫ヘンリー6世も財産を返却したため、かつてと同じ待遇を取り戻して余生を送った。1437年に亡くなると、カンタベリー大聖堂に眠る夫のそばに埋葬された。
最終的に釈放されていますが、イングランドのやり方はどうも納得できないです。
ジャンヌは最初の夫ジャン4世との間に9人の子女をもうけた。
・ジャンヌ(1387年ー1388年)
・次女(名前不明、1388年)
・マリー(1391年ー1442年)1398年、アランソン公ジャン1世と結婚
・マルグリット(1392年ー1428年)1407年、ロアン子爵アラン9世と結婚
・アルテュール3世(1393年ー1458年)ブルターニュ公
・ジル(1394年ー1412年)シャントセ領主
・リシャール(1394年ー1438年)エタンプ伯
・ブランシュ(1397年ー1416年)1407年、アルマニャック伯ジャン4世と結婚
こうして見ると、生き残った子供が全員どこかしらの領主になるか領主と結婚していますね。他の国だと後から生まれた子は大抵聖職者になっているのに、フランスやイングランドはそうではないです。だから王位継承が複雑になるのかもしれませんが・・・
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