エルサレム女王シビーユ(2)
文字数 916文字
ギヨーム・ド・ティールの年代記によると、1179年頃シビーユとボードゥアン・ディブランは恋仲であり、ボードゥアンがサラディンの捕虜になっている時も手紙のやり取りをしており、ボードゥアンが解放された後、結婚するつもりだったという。しかし、母のアニエスは貴族派のボードゥアンを嫌い、自分の愛人であったエメリーの弟で宮廷派のギー・ド・リュジニャンと結婚させたとし、また、シビーユも移り気な性格ですぐにギーに乗り換えたとしている。
しかし、ギヨーム・ド・ティールはエルサレム総大司教座などをめぐって政治的に宮廷派と対立しており、またギヨームの死後、年代記を整理・加筆したのが、イブラン家の関係者であるため、宮廷派に関する記述はあまり信用できないと考えられている。
現実的なところでは、ブルゴーニュ公ユーグ3世に断られた後、トリポリ伯レーモン3世とアンティオキア公ボエモン3世はボードゥアン・ディブランを推したが、ヨーロッパからの援助を期待していたボードゥアン4世が、プランタジネット朝の臣下だったリュジニャン家を選んだと考えられる。シビーユとギーとの間には2人の娘が生まれている。
ボードゥアン4世は、1180年にギーを摂政に任命したが、その能力に疑問を持ち、1183年にシビーユ夫妻の継承権を奪って5歳のボードゥアン5世を共同王にするとともに、ギーを摂政から解任し代わりにレーモン3世を摂政とした。