ナバラの歴史とイエズス会(2)

文字数 1,407文字

『Miguel Serveto o Miguel de Villanueva』の中のナバラとアラゴンの関係の中から、イエズス会での重要人物に関係ある部分を紹介しています。作品集には下の画像から入ってください。
1521  Levantamiento de la ciudad de Tudela y de Navarra contra las tropas imperiales. El día 23 de junio de 1521 Antonio Enriquez de Lacarra merino de la ciudad de Tudela y de la ribera. Señor de Ablitas, encomendado por Andrés de Foix. Iñigo de Loyola, cae herido en la defensa del castillo de Pamplona con el ejército del Emperador.
1521年 トゥデラとナバラが皇帝の軍隊に対抗して反乱を起こした。トゥデラの都市と川の沿岸の代官は1521年の6月23日にアントニオ・エンリケス・デ・ラカラとなった。アンドレアス・デ・フォイクスによってアブリタスの領土を任せられた。イニゴ(イグナチオ)デ・ロヨラはパンプローナの城で皇帝軍と戦っている時に怪我をした。
1512年にナバラを征服したのはアラゴン王フェルナンド2世ですが、1516年にフェルナンド2世は亡くなります。スペイン王位は娘のファナが継ぐのですが(カスティーリャとアラゴンの両方)ファナは夫フェリペ美公の死後精神に異常をきたして幽閉されていて、1516年から長男のカルロス1世がスペイン王となり、さらに彼は1519年からはローマ皇帝にもなっています。1521年の反乱の時のスペイン王はカルロス1世(ローマ皇帝カール5世です)
イグナチオ・デ・ロヨラについてウィキペディアの記述も少し紹介します。
イグナチオ・デ・ロヨラ(1491ー1556)イグナチオ・デ・ロヨラことイニゴは、バスク地方のギプスコア地方アスペイティアにあるロヨラ城で生まれた。13人兄弟(上智大学公式サイトは12人兄弟としている)の末っ子だったイニゴは7歳で母を失い、1506年に親戚の騎士でカスティーリャ王国の財務官を務めていたフアン・ベラスケス・デ・クエラルの従者となった。1517年以降、イニゴは軍務について各地を転戦したが、1521年5月20日に行われたパンプローナの戦いで、指揮中に飛んできた砲弾が足に当たって負傷し、父の城で療養生活を送ることになった。
この後、イグナチオ・デ・ロヨラは療養生活の中でイエス・キリストの生涯の物語や聖人の物語を読み、モンセラートのベネディクト修道会修道院を訪れ、世俗を捨ててひたすらわが身を聖母に捧げることを誓います。そして1528年にパリ大学へ入学し、フランシスコ・ザビエルやピエール・ファーブルなどの同志と出会います。
フェルナンド2世のナバラ侵攻がイエズス会の中心となる2人のナバラ人の人生に大きな影響を与えていたのですね。
フェルナンド2世がアラゴン王になったのは、歴史のいろいろな不幸や偶然が重なった末の結果でもあった、でもこうして王となったフェルナンド2世はスペインだけでなく世界の歴史を大きく変えています。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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