ナバラ王カルロス2世(3)
文字数 1,291文字
1361年、従弟であるブルゴーニュ公フィリップ1世の早世により、カルロス2世は長系相続者としてブルゴーニュ公位を要求した。彼は1306年に亡くなっているロベール2世の孫であったためである。しかし、公位はより血統の近いマルグリットの妹ジャンヌの息子であるジャン2世に渡り、ブルゴーニュ公領は王領となり、やがてジャン2世の末子でシャルル5世の弟フィリップ2世へ譲られた。
1364年、カルロス2世はブルゴーニュ公領の相続に異議を唱え自分への継承をシャルル5世に訴えた。再びイングランドと同盟を結んでいたため強気に出ていたのだが、5月16日、イングランド・ナバラ連合軍はノルマンディーに攻め入ったフランスの傭兵隊長ベルトラン・デュ・ゲクランにコシュレルの戦いで敗れたため、1365年のサン=ドニ条約でフランス王位請求権を放棄し、同年3月にシャルル5世とアヴィニョンで条約を結びブルゴーニュ公位も放棄した。
条約の内容はノルマンディーのセーヌ川流域にカルロス2世が持つ所領、つまりムラン=アン=イヴリーヌ、マント及びロングヴィル伯領(イングランドからパリに侵攻するためのルートに当たっていた)を放棄する代わりにモンペリエ(南仏)の街とその領主権をカルロス2世に与えることになった。ロングヴィル伯位はこの後ゲクランに与えられた。
以後もフランスへの反抗を繰り返し、第一次カスティーリャ継承戦争では1366年にイングランドのエドワード黒太子およびカスティーリャ王ペドロ1世とリブルヌで同盟を結びナバラ国内のイングランド軍通行を認めた。ナバラは往復するイングランド軍の略奪に苦しめられつつ、黒太子が1367年のナヘラの戦いでフランスが支援するエンリケ2世(ペドロ1世の異母兄)に勝利したが、戦後黒太子はペドロ1世と仲たがいして引き上げ、孤立したペドロ1世が1369年にモンティエルの戦いでエンリケ2世に討ち取られたため無駄になった。