カスティーリャ王ペドロ1世(1)
文字数 1,152文字
カスティーリャ王アルフォンソ11世は、自身は1歳で即位して後見人の争いがありましたが、20歳になる前に巧みな政略結婚で切り抜け、以後はレコンキスタに力を入れ、国内の改革も行って王権強化に成功しました。けれどもアルフォンソ11世が王妃を遠ざけ愛妾を寵愛したことで次の世代は大きな争いが起きてしまいます。作品集のページには下の画像から入ってください。
ペドロ1世(1334ー1369)はカスティーリャ王国の国王(在位1350ー1366)そのふるまいから残酷王、または正義王ともいわれる。名前もあだ名も同じで混同されやすいが、同じく「正義王」「残酷王」と呼ばれるポルトガル王ペドロ1世は叔父にあたる。
1334年、カスティーリャ王アルフォンソ11世とポルトガル王女マリア(ポルトガル王アルフォンソ4世の娘、ペドロ1世の姉)の間に生まれる。アルフォンソ11世には、愛妾レオノール・デ・グスマンがおり、彼女との間に10人の子を儲けていた。ペドロ誕生に先立つ、1334年1月13日、レオノールはエンリケを出産する。エンリケの同母兄は夭折し、トラスタマラ伯の地位を与えられたエンリケが実質的な長男として育つ。
1350年3月、父王が崩御し、ペドロ1世として即位した。しかし、家臣の傀儡に過ぎず、反発するも母マリアの裏切りもあり、逆に抑え込まれてしまった。しかし、すぐに家臣たちは仲間割れを始め、その期に乗じて実権を握った。このとき母をポルトガルに追放した。さらに異母兄トラスタマラ伯エンリケも国外へ逃亡し敵対する。
1353年6月3日、母后マリアとポルトガル人の宰相フアン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケの勧めにより、フランス王族の第2代ブルボン公ピエール1世の娘ブランシュと結婚した。しかし、彼女を幽閉したため、フランス王家とも対立することになる。一方、愛妾マリア・デ・パディーリャとの間には、1353年から3年連続で女子を儲けた。ブランシュは、1361年、孤独のうちに逝去した。