ベネディクトゥス13世(対立教皇)(3)
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1394年9月20日にクレメンス7世が死去、アヴィニョンで行われたコンクラーヴェで教皇に選出された。ローマとの合同に努力することを誓い、ローマ教皇ボニファティウス9世、インノケンティウス7世、グレゴリウス12世と交渉を試みたがいずれも失敗した。
ローマ側の教皇はウルバヌス6世(在位1378年ー1389年)、ボニファティウス9世(在位1389年ー1404年)、インノケンティウス7世(在位1404年ー1406年)、グレゴリウス12世(在位1406年ー1415年)でインノケンティウス7世以外はそんなに短くないです。ベネディクトゥス13世の在位は1394年ー1417年、66歳で教皇になって23年間教皇でいたのでかなり長いです。亡くなったのは1423年で95歳でした。
1409年のピサの教会会議でグレゴリウス12世とベネディクトゥス13世の廃位、そしてアレクサンデル5世の選出が決定されるが、先の2人の教皇が揃って退位を拒否した。これで同時に3人の教皇がたつという異常事態に陥った。
ベネディクトゥス13世はアラゴンへの傾斜を強め、1410年のマルティン1世亡き後に開かれた後継者会議に出席したフェレールを通して、1412年に自身が推すフェルナンド1世を新たなアラゴン王に選出(カスペの妥協)、支援を取り付けた。
もし、教皇選でウルバヌス6世が選ばれずにクレメンス7世が選ばれていたら、教会大分裂は起こらず、ベネディクトゥス13世も次に普通に教皇に選ばれていたと思います。対立教皇という不安定な立場でなければ、マルティン1世の王妃がルナ家出身なのだから、庶子であってもルナ家の血を引くファドリケを選んでいたかもしれません。ほんの少し歯車が狂ったことで歴史は大きく変わりました。
ほんの少し歯車が狂ったことで、アラゴンは大きく変わってしまいました。そしてその後カスティーリャとアラゴンはスペインとなり、レコンキスタが終わってユダヤ教徒、イスラム教徒への追放令が出されました。僕たちの祖先は何百年も前からこの土地に住んでいたのに、王が変わり国が変わることで僕たちユダヤ人は改宗か追放か、それとも死か、迫られるようになったのです。