アンゲラン7世・ド・クシー(2)
文字数 1,464文字
アンゲラン7世・ド・クシーについての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
十字軍騎士の子孫として、アンゲランはブルゴーニュ公ジャンおよび後に神聖ローマ皇帝となるハンガリー王ジギスムントが率いるニコポリス十字軍に参加した。1396年9月25日、十字軍はニコポリスの戦いでバヤズィト1世に敗北し、アンゲランはビテュニアで捕虜となり、翌年に傷がもとでブルサで死去した。遺体はノジャンに、心臓はソワソンの聖トリニティ修道院に埋葬された。
ジギスムントは余の異母弟である。異母弟と仲は悪かったが、陰険で狡猾なジギスムントが全体の指揮を執っていたなら、ここまで酷い負け方はしなかったと思う。
ブルゴーニュのバカ息子が中心になっていたから酷い負け方をしたのです。それなのにバカ息子は身代金を払ってもらって釈放され、パリに戻って今度はルイ・ドルレアン(シャルル6世の弟)を暗殺します。フランスでの争いは激しくなり、そこをイングランドのヘンリー5世に付け込まれます。ニコポリスの戦いやアジャンクールの戦いで多くの騎士が戦死し、また捕虜にされました。みんなブルゴーニュのバカ息子が悪いのです。
アンゲランには男子がなく、長女マリーが継承した。マリーは夫アンリ・ド・マルルの死後、1400年にクシー領およびそれに付随するフォランブレ、サン=トーバン、ラ・フェール、サン=ゴバン、ピノン、ル・シャテリエ、サン・ランベール、アシー、セルニーなどをルイ・ドルレアンに400,000ポンドで売却した。
え、そんなにたくさんの領土を売ってしまったのですか?
身代金の支払いなどもあって生活が苦しくなったのでしょう。騎士が戦死したり捕虜になればその実家は大変なことになります。
クシー家本家は断絶したものの、マルル、ラ・フェール、サン=ゴバン、アムおよびソワソンの一部など主な領地はマリーの子孫であるスカルポン家、ルクセンブルク=リニー家、さらにブルボン=ヴァンドーム家に継承され、ヴェルヴァンは分家のクシー=ヴェルヴァン家に継承された。
ここに出てくるスカルポン家、ルクセンブルク=リニー家、ブルボン=ヴァンドーム家については別に詳しく調べてみます。
1365年7月27日、ウィンザー城でイングランド王エドワード3世の娘イザベラと結婚し、以下の娘をもうけた。
・マリー(1366年ー1404年)ソワソン女伯、バル公嗣子であったマルル領主アンリと結婚
・フィリッパ(1367年ー1411年)1376年に第9代オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアーと結婚、1387年に離婚
イザベラの死後、1386年にロレーヌ公ジャン1世のイザベル(1410年没)と結婚し、1女をもうけた。
・イザベル(1411年没)1409年にヌヴェール伯、ルテル伯フィリップ・ド・ブルゴーニュ(1389年ー1415年)と結婚
庶子が1人いる。
・パースヴァル(1386年頃ー1437年頃)ギネ領主、オーベルモン領主
フィリップ・ド・ブルゴーニュはブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)とフランドル女伯マルグリット3世の末息子でジャン1世(無怖公)の弟です。1415年のアジャンクールの戦いに次兄アントワーヌと一緒にフランス軍側で参戦し、戦死しました。
アジャンクールの戦いでは、ジャン1世(無怖公)の弟が2人も戦死しているのですね。
そのような犠牲があっても、ブルゴーニュのバカ息子の態度は変わらず、ますますフランスを混乱させました。
次回からはルクセンブルク=リニー家について調べてみます。
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