ウスタシュ3世(2)
文字数 938文字
ウスタシュ3世はウスタシュ2世とイド・ド・ブローニュの三男として1050年。1088年、ウスタシュは主君のイングランド王ウィリアム2世に反乱を起こし、ウィリアムの兄ノルマンディー公ロベール2世と同調してイングランド王と対立した。
彼はロベールがノルマンディーからイングランドに侵攻するのを待ちわびていたが、待てど暮らせどロベールはイングランドに姿を現さず、ウスタシュと彼の家臣たちはロチャスター城に籠城し続けた。次第に状況は悪化し兵糧も底をついたため、ウスタシュは城を包囲するウィリアム2世に降伏した。ウィリアム2世は反乱に加担した多くの諸侯を釈免し、ウスタシュ3世のような多くのフランク諸侯はノルマンディーへの帰還を許された。1091年、ロベール2世がウィリアム2世と講和し、ウィリアム2世をイングランド王であると承認するという条約が両者間で締結された際、ウスタシュ3世はロベール2世の元にいたという。
1096年、ウスタシュ3世はローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより開催された第1回十字軍に参加し、弟のゴドフロワ・ド・ブイヨンやボードゥアンらとともに従軍した。彼が弟のゴドフロワとともに進軍したのか、はたまたロベール短袴公とともに進軍したのかは定かとなっていないが、どちらにせよウスタシュ3世はゴドフロワの軍功をおおいにサポートしたという。
1097年5月~6月にはニカイア攻囲戦に参加し、同年7月1日にはムスリムの急襲を受け窮地に陥ったターラント公ボエモンをドリュラエウムで救い出し、アンティオキア包囲戦では十字軍に奇襲を仕掛けたムスリム軍を返り討ちにするなどの活躍を見せた。そして1098年7月3日、五代聖地のひとつであるアンティオキアを征服する際には指揮官の1人として攻囲戦を戦い抜いた。