アラゴンはフランス風の宮廷文化を持つ先進国だった
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前に2000字ファンタジーで『アラゴンの王女コンスタンサ』という小説を書き、ハインリヒ7世が自分が生まれる前、ハンガリー王妃だった頃の母に会っているのですが、今回はその後のコンスタンサについて話題にしてみたいと思います。
まずはアラゴン王家、家系図のおさらいをします。ラミロ2世の娘ペトロニーラがバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世と結婚し、長男のアルフォンス2世がアラゴンとバルセロナの両方を受け継ぐこととなり、アラゴン・バルセロナ連合王国となります。
アルフォンソ2世はカスティーリャ王アルフォンソ7世の娘サンチャと結婚して、ペドロ2世、コンスタンサ他たくさんの子に恵まれます。その中でアルフォンソはプロバンス伯となり、フェルナンドはモンテアラゴンの大修道院長となりました。
アラゴン王女コンスタンサは1198年にハンガリー王イムレ1世と結婚し、1209年にシチリア王フリードリヒ2世と結婚しています。この時はまだ皇帝ではありませんが。そしてハインリヒ7世が生まれたのは1211年です。
ハ・ハ・ハ、余の偉大さにようやく気付いたようだ。もっとも結婚した当時のフリードリヒ2世はまだ15歳でシチリア王の称号を持っていただけだった。それにシチリアはまだ荒れ果てていた。アラゴンの方がずっと格上だった。
10歳年上のアラゴン王女コンスタンサがシチリアにフランス風の洗練された宮廷文化を持ち込んだ。いいか、大事なことだから繰り返す。余の時代、アラゴンはピレネーの麓の小さな国ではない。フランスとの関係が深い、洗練された先進国で大国だった。