フランス王ルイ7世(4)
文字数 1,306文字
トゥールーズ遠征に失敗した後、妹ペトロニーユと既婚者だったラウル1世を結婚させるため、夫を強引に動かし聖職者たちを動員、ラウル1世と最初の妻エレオノール・ド・シャンパーニュを離婚させた。これがエレオノールの兄ティボー4世の怒りを買いラウル1世との対立に発展、同年にはラウル1世の再婚騒動に加え教会と王の叙任権闘争も起こった。ルイ7世はブールジュの大司教に自分の側近を充てようとして教会と対立、ローマ教皇インノケンティウス2世の忠告にも耳を貸さず、教会側が選出した司教就任予定のピエール・ド・ラ・シャトルをフランスに通さず抵抗、インノケンティウス2世からフランスの聖務停止命令が下された。1142年にはティボー4世の代理としてクレルヴォーのベルナルドゥスが教皇の下へ赴き、訴えを聞いた教皇がラウル1世とペトロニーユ夫妻、離婚に手を貸した聖職者3人とルイ7世を破門しても王は反抗的な態度を改めず、アリエノールは王の側近たちから責められるようになった。
ルイ7世の宮廷で17歳のペトロニーユと40歳を超えていたラウル1世が恋愛関係になったようですが、その結果ルイ7世は教会と対立して破門までされているので、アリエノールとペトロニーユの姉妹は本当にトラブルメーカーだと思いました。
やがてルイ7世はシャンパーニュにも介入、1143年、ペトロニーユ・ラウル1世の結婚に反対してピエール・ド・ラ・シャトルを匿ったティボー4世へ攻撃を企て、ヴィトリー=アン=ペルトワの町を攻撃、放火した。この炎が教会に燃え広がり、避難した市民1000人以上が焼かれ死ぬ惨事となり、軍はパリへ帰還したが、衝撃を受けたルイ7世は罪悪感から祈りと瞑想に没頭する日々を送った。
王と教会の仲裁に出たベルナルドゥスからの叱責を受けた王はインノケンティウス2世の後を継いだ教皇ケレスティヌス2世により破門と聖務停止命令を解かれ、翌1144年6月11日、サン=ドニ大聖堂落成式に出席、シュジェールの仲介でラウル1世共々ティボー4世と和解、ブールジュ大司教をシャトルと認めることも了承した。一方、王と共に落成式に出席したアリエノールは王がシュジェールを再起用して自分を政治から遠ざけ始めていることに気付き、王家への影響力保持のためベルナルドゥスに懐妊の祈りを捧げて欲しいと懇願、翌1145年に長女マリーを出産した。しかしベルナルドゥスからはルイ7世をそそのかして悪行に走らせた存在として警戒され、妹夫婦の破門解除も聞き入れてもらえなかった。