ジェームズ1世(イングランド王)(16)
文字数 911文字
派閥抗争は議会解散後も続き、ペンブルック伯・アボット・国王秘書長官ラルフ・ウィンウッドらプロテスタント派はノーサンプトン伯と甥のサフォーク伯トマス・ハワードとサマセット伯ロバート・カーらカトリック派から国王を引き離すため、ジョージ・ヴィリアーズ(後のバッキンガム公)を国王に近付けさせた。国王から寵愛されたヴィリアーズは期待に応え1618年にサフォーク伯を失脚させ、サマセット伯も1615年に政略結婚に絡んだ殺人でベーコンに告発され失脚、プロテスタント派の勝利でヴィリアーズが台頭(1616年にバッキンガム子爵、1617年に伯爵、1618年に侯爵、1623年に公爵に叙爵)ミドルセックス伯爵ライオネル・クランフィールドが財政改革に乗り出したが、赤字を解消できず1621年に議会招集をせざるを得なかった。
時期は前後して、司法でコモン・ロー法律家で裁判官エドワード・コークとも対立する。コモン・ロー信奉者のコークは1606年に民事高等裁判所首席裁判官に就任してからコモン・ローを扱う裁判所を擁護、エクイティの裁判所や王権と権限や管轄争いを引き起こした。ジェームズ1世はベーコンと共に国王大権を擁護して対抗しつつもコークとの和解の道を探り、1613年に彼を王座裁判所首席裁判官へ転任させたが、コークが一向に翻意せずコモン・ロー裁判所を拠点にして国王大権と対立し続けたため、1616年にコークを解雇した。一方、コークとの争いで一貫して国王を理論で擁護したベーコンを法務長官(1613年)、枢密顧問官、国璽尚書(1617年)、大法官(1618年)に昇進させ、同年にヴェルラム男爵、1621年にはセント・オールバンズ子爵に叙した。