フランス王ルイ7世(6)
文字数 938文字
フランス軍は1147年10月4日に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープルに到着、皇帝マヌエル1世に歓迎されしばしの休息に浸った。ルイ7世・アリエノール夫妻も皇帝に迎えられ、ルイ7世は質素な生活習慣を堅持して過ごしたが、アリエノールは華麗な宮廷文化に心奪われ、フランスと違う開放的な雰囲気とマヌエル1世の魅力に惹かれた。しかし十字軍兵士と現地人の間で衝突が頻発したり、滞在で軍資金が底をついたルイ7世は本国を守るシュジェールに資金調達依頼を出す有様で、マヌエル1世がセルジューク朝に内通しているという疑いもルイ7世の不安を搔き立てた。
やがて先発していたローマ王コンラート3世の軍が小アジアで東ローマ帝国の裏切りに遭い、誘導されたルートで出くわしたセルジューク軍に敗れ退却(ドリュラエウムの戦い)、敗残兵がニカイアでフランス軍と合流した。
惨状を知ったルイ7世は小アジアの南側、エーゲ海と地中海に沿ったルートを進み、アンタルヤ(アダリア)港へ向かうことにしたが、1148年1月6日にピシディア渓谷に到着した所で待ち伏せていたセルジューク軍の奇襲を受け本体は大損害を受け、後衛部隊を指揮していたルイ7世は救援に向かい奮戦、敵軍は長時間戦闘で疲弊していたため夜に撤退した(カドムス山の戦い)戦いは1000人近い犠牲者を出し、アリエノールの側近ジョフロワ・ド・ランコンが率いる先発部隊は勝手に本体と遠く離れて戦闘に参加しなかったことが問題となり、ランコンはポワティエへ召喚された。アリエノールのこの戦いの動向は不明だが、ランコンの主君でもあるため彼女にも非難がおよび、ルイ7世の側近たちから恨みを抱かれた。