ビセンテ・フェレール
文字数 1,661文字
今日はビセンテ・フェレールについて話題にします。ベネディクトゥス13世に引き立てられてアヴィニョン支持を求める説教を行い、カスペの妥協に出席してフェルナンド1世の即位に尽力し、最後はベネディクトゥス13世から離反して、教皇カリストゥス3世に列聖され聖人となった人がどういう人なのか興味を持ったからです。作品集には下の画像から入ってください。
1350年、アラゴン連合王国を構成するバレンシア王国の都市バレンシアで誕生。父ギジェルモ・フェレールと母コンスタンシア・ミゲルの間には3人の娘と3人の息子がいた。ギジェルモは公証人であり上流階級とのつながりがあったため、有力者に息子の代父となってもらって洗礼を受けさせ、サント・トマス教区の『サンタ・アナの恩恵』を受けることができた。ビセンテが出生した当時、バレンシアは黒死病の流行に苦しんでいた。
聖職者を志し、1367年にドミニコ会へ入り、レリダで勉強していたが、1378年に教会大分裂が始まるとアヴィニョン対立教皇クレメンス7世の側近ペドロ・デ・ルナ(後のベネディクトゥス13世)に引き立てられ司祭に叙階、アヴィニョン教皇庁の支持者となった。
主にバレンシアを始めイベリア半島で民衆にアヴィニョン支持を呼びかけ、至る所で民衆から熱狂的な人気を博した。1399年には活動をフランスなど他の国々にも足を延ばし、ペドロがクレメンス7世の後を継いで対立教皇ベネディクトゥス13世となると引き続きアヴィニョンに仕えた。
1403年にベネディクトゥス13世がフランスと対立してアヴィニョンを退去、バレンシアのペニスコラへ移住しても立場を変えず、1412年にアラゴン王位を決める会議に弟のシャルトル会士ボニファシ・フェレールと共に出席、ベネディクトゥス13世の意向に沿いフェルナンド1世の即位に尽力した(カスペの妥協)
しかし、教会大分裂を終わらせるべくコンスタンツ公会議がベネディクトゥス13世の廃位・教会の統一を図ると、1416年にベネディクトゥス13世の支持を撤回した。同年にフェルナンド1世も支持を撤回したため、翌1417年に両者から見放され孤立したベネディクトゥス13世は公会議から廃位宣言された(本人は認めず)。
ビセンテ・フェレールは生涯の大半をかけてアヴィニョン教皇庁とベネディクトゥス13世の支持を求めて積極的に説教を行い、フェルナンド1世はカスペの妥協で尽力してもらったのに、ここでベネディクトゥス13世を見放してしまうのですね。これ以上彼を支持しては自分の将来が危ないと考えて・・・
ビセンテ・フェレールは1418年にフランス北西部のブルターニュへ移動、民衆に大歓迎されながら説教を続け、翌1419年にヴァンヌで69歳で没した。死後の1455年に教皇カリストゥス3世に選出されたアルフォンソ・デ・ボルハにより列聖された。