メアリー・オブ・ギーズ(2)
文字数 1,304文字
スコットランド王妃になってもジェームズ5世にはたくさんの愛人と庶子がいて、幸せな結婚生活ではなかった。マリーは母のアントワネット・ド・ブルボンに、手紙で募る里心を訴えた。また、多くの手紙で病弱な幼い息子フランソワの安否を尋ねた。フランソワは毎年糸で自分の背丈を測って母に送った。また、1539年には結婚18ヶ月になってもまだ、ジェームズ5世と母の間に子供が恵まれないのを知って「義父上によろしく、そのうちに王妃に小さな弟をあげてください」という手紙を送った。1547年には、ピンキー・クローの戦いが起きたため、自分は母を救出しにいくために槍の稽古をしていると手紙に書き、1548年にも、彼は自分は母を助けに行ける者だということを証明するために、フランソワ1世に負けないくらい狩りに出かけているという手紙を送った。
1542年12月8日、王女メアリー・ステュアートが誕生した。この年に起きたソルウェイ・モスの戦いでジェームズ5世が死去し、王の遺言状通り、ステュアート家の一族である第2代アラン伯ジェームズ・ハミルトンが摂政となった。
ソルウェイ・モスの戦いはイングランド王ヘンリー8世がスコットランド王ジェームズ5世に対してローマカトリック教会からの離脱を要求し、ジェームズ5世がそれを拒否したことがきっかけで起きています。ジェームズ5世はカトリックの信仰を守ろうとしたのに、その後のスコットランドでは宗教改革が進み(英国国教会ではなくカルヴァン系の長老派)カトリックのメアリーが孤立することになります。
1543年7月1日、イングランドの圧力により、ヘンリー8世の息子エドワード(後のイングランド王エドワード6世)とメアリーとの婚約が決められた。1545年には、アラン伯の政治手腕が疑問視され始め、1554年にアラン伯は解任、マリーが摂政となった。
しかしマリーが摂政になると、プロテスタントの説教師で宗教改革論者であったジョン・ノックスはカトリックであり、しかも女性の統治者である彼女に激しい敵意を抱いた。彼は女性の統治者など、神の摂理にもとると考えていたのだった。さらに、ノックスは彼女の摂政就任についても「冠が彼女の頭上に置かれた.....まるで御しにくい牝牛の背に鞍を置いたようだ.....なんというザマだ」と悪し様に言っている(こうした対立の根底には、ローマ・カトリックの支配から、スコットランド教会の自由を守り、宗教改革を継続させるという理由があった)