ベルトラン・デュ・ゲクラン(3)
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続くイングランドとの戦いではポワトゥーやサントンジュを取り戻し、イングランド軍をブルターニュに追いやった。これらの功績により、ゲクランは1370年10月2日、シャルル5世によってフランス王軍司令官に任じられている。
フランスのシャルル7世は私の娘ビオランテ(ヨランド・ダラゴン)の娘マリーと結婚しているので、私の義理の孫になります。この時シャルル7世はまだ産まれていませんが、ゲクランの活躍でフランスが有利になったのは間違いないと思います。
僕の立場から見れば、ゲクランはユダヤ人を多く登用したペドロ1世が殺されてエンリケがカスティーリャ王になるきっかけを作った人物、ユダヤ人やイスラム教徒への迫害が始まる原因の1つを作った敵ですが、フランス側から見れば大活躍した英雄ですね。
エドワード黒太子は病に臥せっていて戦場に出ることができずにいましたが、1370年に黒太子が無理を押して出陣した出陣したリモージュの包囲戦では開城させることに成功しますが、以前にリモージュが無抵抗でフランス軍に開城した罰として住民3000人を虐殺してしまいました。
このことでイングランド軍への反発は強まり、病が重くなって戦場に出ることもできなくなった黒太子は1371年に本国へ帰還し、その後ゲクランの活躍でイングランドはアキテーヌの大部分を失います。そして1376年6月に45歳で赤痢(またはペスト)により病死します。父も翌1377年に死去し、王位は黒太子の息子リチャード2世が継ぐことになります。
1375年にブリュージュ条約が結ばれ、百年戦争は2年間の休戦を迎える。この条約によってフランスはほぼ戦前の旧状に復し、カレー、シェルブール、ブレスト、ボルドー、バイヨンヌの諸都市を除いた地域を取り戻した。
シャルル5世は、王家の墓所パリのサン=ドニ大聖堂にゲクランを埋葬するように命じた。2ヶ月後にはシャルル5世も死亡したが、今もゲクランの石棺はシャルル5世の足元に置かれている。なお、心臓は地元ディナンのサン・ソヴール教会に埋葬された。
ゲクランの性格は、ルネサンスの傭兵隊長に近い合理的な側面を見せながら、中世の騎士道精神も残した過渡期特有の二面性を持ったものだった。奇襲や野戦のような戦術を用いる臨機応変な戦術で勝利を収めながらも、名誉を重視してやたらと誓いを立て、エドワード黒太子に勝つまで座って食事をしないなどの制約を自らに課すようなところは、中世の騎士そのままだった。彼は死亡するまでに、フランスの大部分をイングランドから奪い返した。