エドワード黒太子(2)
文字数 1,628文字
1367年、カスティーリャ王国の内戦(第一次カスティーリャ継承戦争)でフランスが支援するエンリケ2世に敗れて亡命してきたペドロ1世を支援して遠征し、フランスのベルトラン・デュ・ゲクランとカスティーリャ軍にナヘラの戦いで大勝した。しかし、この頃から黒太子は赤痢に冒されて病気がちになり(ペストに冒されていたという説もある)戦後ペドロ1世と遠征費用の負担を巡り対立してアキテーヌへ戻り、黒太子に負債だけが残る結果となった。
私達の時代、赤痢の原因はわからなくても、修道院や宮廷では水や食物、調理法に注意を払って病気を防いでいた。だが戦場ではそうすることもできず、赤痢にかかる者も多かったのだろう。症状が激しければ命は助かっても以後苦しめられたに違いない。
1369年3月にペドロ1世は態勢を立て直したゲクランとエンリケ2世の連合軍にモンティエルの戦いで敗死、カスティーリャはフランス派のエンリケ2世が治めることになり、アキテーヌは西をカスティーリャ海軍に脅かされる形になった。
ペドロ1世は約束した金を支払わなかったが、黒太子は連年のように戦争を続け、王に匹敵する豪勢な生活を送ったため、財政は破綻状態となった。財政再建のため1368年、支配下のアキテーヌ公領に対して炉税(家庭に設置してある竈ごとに課税する人頭税、世帯・家庭ごとに徴税台帳を作ったので戸別税とも)を新たに課したため住民の不満は高まった。
一度贅沢が身についてしまうと、なかなか慎ましくはなれないのです。私なども王妃とその寵臣に宮廷を牛耳られ、このままではいけないと思いながらも狩りに夢中になって現実から目を背け、気づいたら国の財政は傾き、死んだ時に王にふさわしい立派な棺すら作ってもらえないほどでした。
黒太子が豪勢な生活を続けたのも病が原因だったのかもしれない。赤痢に冒され、思うように戦いに出られない生活の中、さぞや歯がゆかったに違いない。昔の栄光があるからこそ、贅沢な暮らしをすることで威厳を保とうとしたのだろう。
アキテーヌの豪族達、特にアルマニャック伯ジャン1世と甥のアルブレ卿アルノー・アマニューはフランス王シャルル5世の管轄するパリ高等法院に提訴し、これを受けて黒太子の出頭が命じられた。イングランド側は宗主権ごとアキテーヌが割譲されたと認識しており、黒太子は「自分の好きな時に大群を率いて出頭する」と返答したため、シャルル5世はアキテーヌ公領の没収を宣言し、1369年11月に百年戦争が再開された。
戦費の問題が歴史を大きく変えることもある。私の父は第4回十字軍に参加したが思うように戦費が集まらず船賃を払うこともできずヴェネツィアで足止めされていた。ちょうどその時東ローマ帝国の皇子が父の皇位が簒奪されたと助けを求め、介入している中で結果として東ローマ帝国を滅ぼしてロマニア帝国を建国してしまった。もしあの時船賃を払うことができたなら、他の十字軍と同じようにエルサレムに向ったであろう。そうなれば私は生まれてないが・・・