ヨハネス23世(対立教皇)(2)
文字数 1,354文字
ヨハネス23世は1414年11月、ドイツにコンスタンツ公会議を招集する。公会議では多数のイタリア人出席者を味方に付けて、自分の立場が再認識されることを期待していたが、公会議が自分の思惑と違う展開に進んでいることに気付くと、ヨハネス23世は1415年3月20日にオーストリア公フリードリヒ4世の手引きでコンスタンツから逃亡した。
ヨハネス23世はこの公会議で異端、聖職売買をはじめ、海賊、殺人、強姦、男色、近親相姦など様々な罪状で告発、4年間拘禁されるが、1419年にジョヴァンニの尽力で釈放された。これらの罪状は恐らく捏造されたものだと考えられる。
釈放後は1419年6月にマルティヌス5世からトゥスコロ司教に任命されるが、同年12月22日、フィレンツェで死去。死後、サン・ジョヴァンニ洗礼堂(フィレンツェ大聖堂に隣接)にジョヴァンニの依頼でドナテッロとミケロッツォ・ディ・バルトロメオが制作したヨハネス23世の墓碑が造られた。
碑文に「かって教皇であったヨハネス23世」と書かれ、かつて正規の教皇であったと思われる曖昧な印象を与える碑文の変更をマルティヌス5世から命じられたフィレンツェは取り合わず、現在も墓碑と共に残されている。
メディチ家のジョヴァンニやフィレンツェの人は教皇庁の決定には負けない反骨精神があって、だからこそルネサンスの文化が栄えたのでしょう。文芸や芸術を保護して国の財政を傾けてしまった私としてはある意味うらやましいです。