ヴェンツェル(1)
文字数 1,895文字
誕生から1年後に母が亡くなったたが、父からの期待は大きく1373年にブランデンブルク選帝侯位を与えられ、1376年のフランクフルトにおける選挙で選帝侯の全員一致でローマ王に選出され、父の後継者として明確に定められた。
また、1378年に父が亡くなった時、ブランデンブルクは弟のジギスムントが引継ぎ、末弟ヨハンはラウジッツの都市ゲルリッツを相続することになった。従兄弟のヨープストもモラヴィアを領有していたため、ヴェンツェルは分割相続で立場を弱めることになった。
1379年からローマ王としての親政を開始したが、シュヴァーベン都市同盟に対抗して諸侯も団結して都市との戦争に突入、ヴェンツェルは1382年から1384年にかけて度々都市同盟の解散を命じたが効果なく、両者は規模を拡大させ1388年に衝突した。手をこまねいていたヴェンツェルは翌1389年5月にエーガーのラント平和令を発布したが、都市同盟の解散、賠償金支払いなど不公平な裁定が目立ち、都市に不利な条件だったため都市の反感を買った。
ローマ寄りの姿勢は1382年にウルバヌス6世が取り持った異母妹アンナとイングランド王リチャード2世の結婚で深まり、見返りにイングランドの援助でローマで皇帝戴冠式を挙げることを希望したが、都市と諸侯の戦争で帝国が政情不安になっているため実現しなかった。
それでも結婚によりプラハ大学とオックスフォード大学の交流が結ばれ両国の文化発展がもたらされたが、それはジョン・ウィクリフの思想がボヘミアに流れ、ボヘミアにおける宗教改革に大きな役割を果たすことになる。
1395年、イタリア僭主の1人ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティをミラノ公に叙爵したことで帝国諸侯の不満は限界に達し、ケルン選帝侯・マインツ選帝侯・トリーア選帝侯とプファルツ選帝侯ループレヒト2世がヴェンツェルのローマ王廃位に動き出した。1398年にループレヒト2世は死去したが工作は続けられ、1400年にケルン・マインツ・トリーア選帝侯とプファルツ選帝侯ループレヒト3世(ループレヒト2世の子)がヴェンツェルの廃位を宣言、ループレヒト3世を新たな王に選んだ。ヴェンツェルは廃位を認めず抗議したが、地盤のボヘミアも不安定な状況に置かれていたため軍の動員など有効な手段は取れず、ループレヒトがローマ王、ヴェンツェルはボヘミア王という事実は動かせなかった。以後ヴェンツェルは死ぬまでローマ王を名乗りボヘミアを統治することになる。