フィリップ6世(1)
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フィリップ6世(1293年ー1350年)はヴァロワ朝初代のフランス王。アンジュー伯、メーヌ伯を兼ねる。フィリップ3世の四男ヴァロワ伯シャルルと最初の妃マルグリット・ダンジューの子。最初の妃はブルゴーニュ公ロベール2世の娘ジャンヌ。最晩年にエヴルー伯・ナバラ王フィリップ・デヴルーの娘ブランシュ・デヴルーと再婚した。
1325年に父ヴァロワ伯シャルルが薨去し、ヴァロワ伯位を継承した。1328年にシャルル4世が男子を残さず崩御し、妊娠中であったシャルル4世の王妃ジャンヌ・デヴルー(フィリップ・デヴルーの妹)がその没後に出産したのは女児ブランシュ(フィリップ6世の息子オルレアン公フィリップと結婚する)であった。こうしてフィリップ4世の男系男子が途絶えたため、フィリップ3世の男系の孫として、貴族と聖職者の会議でフィリップが選ばれて即位した。
すでに12年前、ルイ10世の崩御の際(正確にはルイ10世の死後に生まれたジャン1世遺児王の死後)、フランク人(サリー・フランク族)の古法であるサリカ法を根拠に女系継承を排除していたため(サリカ法の発見及び王位継承への適用はシャルル5世の代であり、ルイ10世から弟フィリップ5世への王位継承は、ルイ10世の娘ジャンヌの嫡出性への疑義が挟まれたためであるという説もある)フィリップ4世の女系の孫であるイングランド王エドワード3世が王位継承権を主張したものの、フィリップの即位は意義なく受け入れられた。
サリカ法というのは、元々はフランク人の法だったのですね。女系継承は最初から女王として育てられふさわしい結婚相手を選んだか、それとも他国に嫁いだ王女の血を引いているからという理由で、その子が王位を要求したかで全く違ってきます。ラミロ2世の娘ペトロニーラは最初からアラゴンの女王になることが決まっていてバルセロナ伯と結婚し、2人の間の子アルフォンソ2世からのバルセロナ朝アラゴンは繁栄しました。でもカスペの妥協で選ばれたフェルナンド1世は母がフアン1世の妹でアラゴンの血を引いていてもカスティーリャ王子でカスティーリャで生まれて育ちました。そうなるとカスティーリャの価値観でアラゴンの王になる、この時からアラゴンは全く別の国になってしまいました。フランスはサリカ法を持ち出すことで、イングランドに乗っ取られるのを防いだようにも思えます。
しかし、それまで同君連合の下にあったナバラ王国では女系継承が認められており、またフィリップ自身はナバラ王家の血を引いていなかったため、ルイ10世の娘ジャンヌが王位を継承した(フィリップの2番目の王妃ブランシュはジャンヌとフィリップ・デヴルーの娘である)