ヤン・フス(2)
文字数 1,636文字
プラハ大学の環境の発展は教会大分裂(シスマ)に大きく依存していた。ボヘミア王ヴァーツラフ4世の政策をローマ教皇グレゴリウス12世は支持しなかった。そこで王はグレゴリウス12世を見捨て、高位聖職者と大学に対して、並立する教皇を中立に支持するように命じた。しかし、大司教は教皇に忠実で、大学では中立を明言したのはフスを代表とするボヘミア人だけだった。当時は反ウィクリフ派のドイツ人移民とウィクリフ派の土着チェック人の間で対立がおきており、プラハ大学でドイツ人の同郷団(ナツィオ)は3つあったのに対し、チェック人のは1つしかなかった。
簡単に言えばボヘミア王とローマ教皇グレゴリウス12世の対立があって、そこに大学内での対立も加わったのですね。
ボヘミア王、並立する教皇、フスとボヘミア人、チェック人(ウィクリフ派)
ローマ教皇グレゴリウス12世、大司教、ドイツ人移民(反ウィクリフ派)
1409年、大学の対応に怒ったヴァーツラフ4世は、フスとチェコ人指導者の教唆を受け、クトナー・ホラにて布告を発し、大学の諸問題に対して、ボヘミア人には3票の投票権を与え、主にドイツ人同教団等の外国人には1票しか投票権を与えないという改革を宣言した。その結果、多くのドイツ人教授、技術者、学生がプラハ大学を去り、ライプツィヒ大学を創立した。プラハはチェコの一大学となったが、この時の移住者によって、ボヘミアの異端説の名声が遠い国々まで広まった。
大司教がグレゴリウス12世に忠実だった間は、ウィクリフの新思想に対する反対派は失望が続いていたが、大司教は対立教皇アレクサンデル5世(ピサ教会会議で選出)の拝謁に際して、ウィクリフ派がボヘミアの聖職者に騒動を持ち込んだとして告発すると、アレクサンデル5世は1409年12月20日に教書で大司教の権限を強化し、ウィクリフ主義に法的手続きをとること、すなわちウィクリフの著述を廃棄し、教義を無効とし、自由な伝道を禁止すると布告した。
ウィクリフが生きていた時はイングランドの権力者の保護を受けていたから直接異端として追及されることはありませんでした。フスの場合もボヘミア王の支持を受けていた、でもフスの名声が高まるほどに対立する大司教はおもしろくない、そこでピサ教会会議で新しく選ばれたアレクサンデル5世に告発しました。ウィクリフやフスの思想がものすごく危険ということよりも、対立の中で敵を作って恨まれ、名声を得たことで異端にされてしまったような気がします。
教書公布後の1410年、フスは教皇に訴えたが聞き入れられず、全てのウィクリフの書物と写本が焚書となった。そして、フスとその支持者は追放された。この裁きはボヘミアの下層民の間に大変な騒乱を引き起こし、何箇所かで不穏な場面が現れた。政府はフスとその支持者を庇護し、その力は日に日に増大した。フスはベツレヘム礼拝堂で、告発に対して一層大胆な説教をした。プラハの教会は閉鎖され、教皇による禁令がプラハに発せられたが、フスらボヘミア人の運動は止まらなかった。
政府というのはボヘミア王ヴェンツェルも入っていた、フスの運動は民衆に支持されただけでなく王の庇護も受けたのだから、広まるのも無理はないと思います。ましてこの時期の教皇庁は大分裂で新しい教皇が全く別のことを言い出す、批判されて当たり前です。