カリストゥス3世(2)
文字数 1,730文字
ジャンヌ・ダルクと深い関係のあるフランスのシャルル7世(1403ー1461)は私の義理の孫です。娘のビオランテがアンジュー家に嫁ぎ、長女のマリーがシャルル7世の王妃となりました。シャルル7世がジャンヌの復権裁判を行っています。
カリストゥス3世はネポティズムを行い、1456年に2人の甥を枢機卿に登用した。妹イサベルの息子ロドリーゴ・ボルジア(後のアレクサンデル6世)と姉カタリーナの息子ルイス・フアン・デ・ミーラを枢機卿に登用しただけでなく、ロドリーゴの弟ペドロ・ルイスを教会軍総司令官、スポレート公に任じて大衆の怒りを増大させた。
また、ニコラウス5世は十字軍に充てるべき費用を教会の修復や芸術、文芸に費やしたとして非難し、独自に艦隊を編成しエーゲ海へ派遣、トレビゾンド帝国のヨハネス4世と同盟するなど十字軍結成に力を尽くしたが戦果を挙げられずに終わった(遠征艦隊には元フランス会計方ジャック・クールも参加していたが、1456年に途中のキオス島で死去)。
ハンガリーとアルバニアではオスマン帝国に対してフニャディ・ヤーノシュやスカンデルベグなどの英雄が活躍したが、フニャディ死後のハンガリーは内乱が起こり、ドイツではカリストゥス3世が戦費補填のために臨時税を徴収したことで不満が渦巻き、元主君アルフォンソ5世ともイタリアの権益を巡り対立していった。
私はやる気がなくて鷹狩りに熱中して、宮廷を王妃とその寵臣に牛耳られ、不真面目王と呼ばれるようになりましたが、カリストゥス3世は逆にやる気があり過ぎていろいろなことに手を出し、問題を大きくしたような気がします。
教会内部でも不祥事が起こり、アルマニャック伯ジャン5世が実の妹と結ばれることを許可したという勅書を尚書院の役人が作成、多額の謝礼を受け取るという事件があった。カリストゥス3世の死後事件は発覚したが、関与が疑われたロドリーゴは無実と判定された。
1458年6月27日にアルフォンソ5世が死亡、庶子フェルディナンドへのナポリ継承を認めなかったことでナポリをボルジア領にするのではないかとの噂が流れたが、8月6日にカリストゥス3世が79歳で没したため、ボルジア家に対するローマ市民の怒りが爆発して暴動が起こり、ボルジア家を始めスペイン人はローマを逃げ出し、ペドロ・ルイスは逃亡した後急死した。しかしロドリーゴはローマへ引き返し、次の教皇ピウス2世を支持したため地位を保ち、教皇庁で勢力を固め始めた。