マーガレット・ダグラス(2)
文字数 1,301文字
1528年10月、アンガス伯はスコットランド王ジェームズ5世に脅され、マーガレットをツイード川を越えてイングランドのノラム城へ送り返した。乳母または侍女のイソベル・ポパーを伴ってベリック城に短期滞在した後、マーガレットは彼女の代父ウルジー枢機卿の世帯に加わった。1530年にウルジーが死去するとマーガレットはボーリューの王宮に招かれ、メアリー王女の世帯に住んだ。イングランド王位への近さゆえに、マーガレットは従妹で生涯の友となるメアリー王女(後のメアリー1世)との密接なつながりの下、主にイングランドの宮廷で育てられた。1530年、1531年そして1532年のグリニッジ宮殿でのクリスマス季節には、ヘンリー8世はマーガレットに総額10マルク(£6余り、当時の1マルクは13シリング4ペンス相当、2020年時点の£4,043と同等)もの大金を与えた。
アン・ブーリンの宮廷ができた時、マーガレットは女官に任命された。そこでアン・ブーリンの叔父トマス・ハワード卿に出会い、彼らの求愛が始まった。トマスは第2代ノーフォーク公トマス・ハワードと2番目の妻アグネス・ティルニーの下の息子だった。1535年末までにトマスとマーガレットは恋に落ち、秘かに婚約した。
1536年5月、ヘンリー8世は王妃アン・ブーリンを処刑した。1536年7月初めにマーガレットとアンの叔父トマス・ハワードの婚約を知るとヘンリーは怒り狂った。ヘンリーは同年6月に娘のメアリーとエリザベスを庶子であると宣言し(第二継承法)、マーガレットを有力な王位継承候補者に留め置いていたから、彼女にとって、王の許可なく婚約したこと、特に有力貴族の息子かつ不祥事を起こした王妃の近親との結婚は、政治的にとんでもないことだった。
アン・ブーリンが王妃になったことで親族はチャンスと盛り上がり、叔父のトマスもマーガレット・ダグラスと婚約できて喜んでいた、それが今度はアン・ブーリンの処刑でどん底に突き落とされた、あまりにも気の毒です。
トマスとマーガレットはともにロンドン塔に投獄された。同年7月18日、私権剥奪法により、議会は「前記の王位継承の妨害・邪魔・障害」を試みたとしてトマスの死刑を宣告した。同法はまた国王の許可を得ない如何なる王族の結婚も禁じた。トマスは刑の執行は免れたが、マーガレットが彼との関係を絶った後もロンドン塔に留め置かれた。彼は1537年10月31日にロンドン塔で死去した。マーガレットもまたロンドン塔で病に倒れ、ヘンリー8世は彼女を許し、女子修道院長の監督の下、サイオン修道院へ移した。1537年10月29日、彼女は監禁から解放された。