宗教改革の先駆者ウィクリフ
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オックスフォード大学の教授であり、聖職者であったウィクリフは、ローマ・カトリックの教義は聖書から離れている、ミサに於いてパンとワインがキリストの本物の肉と血に変じるという説(化体説)は誤りである等、当時イングランドにおいて絶対的権力を持っていたローマ・カトリックを真っ向から批判した。
イングランド国王が英語の聖書を持たないのに、ボヘミア出身のアン王妃がチェコ語の聖書を所有していることに矛盾を感じていた彼は、晩年になってから、彼がかって司祭をしていたラタワースに戻り、聖書を英語に翻訳した。信徒の霊的糧である聖書とそれに基礎を置く説教を重要視し、翻訳した聖書を持った牧者たちを地方に派遣した。
1384年12月28日の幼児虐殺の日の礼拝に出ている時、脳卒中が再発し、年の終わりに死去した。その後ヨーロッパでフス派が広まった。ウィクリフが当時異端とされなかったのは、イングランド王族でランカスター家の祖であるジョン・オブ・ゴーントの保護があったためであった。
ウィクリフは死後30年ほど後、1414年のコンスタンツ公会議で異端と宣告され、遺体は掘り起こされ、著書と共に焼かれることが宣言された。これは、12年後にローマ教皇マルティヌス5世の命により実行された。ウィクリフの墓は暴かれ、遺体は燃やされて川に投じられた。
随分酷い話ですね。コンスタンツ公会議は教会大分裂を解消するために行われたはずです。教会大分裂が始まった背景には教皇庁がアヴィニョンからローマに戻った時、イタリア人を教皇にというローマ市民の圧力で選ばれたウルバヌス6世が酷くて対立教皇が出て教会大分裂が始まりました。でもコンスタンツ公会議では教会大分裂の原因を考えるよりも新しい教皇を選出することで解決しようとしました。そしてその時に異端に対する厳しい取り締まりもありました。カトリック内部の争いを無理に解決して、異端者に対して残酷になることで問題から目をそらしているように思います。すでに亡くなっているウィクリフの遺体を掘り起こして燃やすなどあり得ないほど残酷なことが教皇の命令で行われそれが正しいことにされてしまった、怖ろしいことです。