マルティン・ルター(1)
文字数 1,071文字
1483年に鉱山業に従事していた父ハンス・ルダーと母マルガレータの次男として、ドイツのザクセン地方の小村アイスレーベンで生まれた。洗礼を受けた日がトゥールのマルティヌスの祝日であったことにちなんで、マルティンと名付けられた。
もともと農夫(鉱夫説もあり)から身を起こした父は、上昇志向が強く、子供達にもさらに上を目指すよう常に要求していた。教育において時に厳格を極めた父の姿は、後のルターが冷酷で厳格な神というイメージを持つ上で強い影響を及ぼすことになる。父の願いに沿う形で、マルティンは勉学に取り組んだ。
個人の体験はその人の思想やイメージにも大きな影響を与えてしまいます。そうして歪められた神のイメージが正しいとは思えない、でもルターの思想に多くの人が共感して宗教改革は始まってしまうのですね。僕はユダヤ人なので、反ユダヤ主義の思想を持つルターの考えは許せないです。
ルターの生後半年ほどで、一家はマンスフェルトへと移住していたため、まずはルターはここの教会付属学校に通った。ルターが13歳になると自宅から離れ、マクデブルク、ついでアイゼナハに学び、法律家になるべく1501年にエアフルト大学に入った。哲学を学び、成績優秀で父の期待するエリート・コースに乗るかに見えた。
マルティンの人生に最初の転機が訪れたのは、ロースクールに入学した1505年のことであった。家を出て大学へ向かったマルティンは、エアフルト近郊のシュトッテルンハイムの草原で激しい雷雨にあった。落雷の恐怖に死すら予感したマルティンは「聖アンナ、助けて下さい。修道士になりますから!」と叫んだという。マルティンの両親は、修道院に入ることには大反対で、結婚して父の後を継いでくれることを望んでいた。しかし、マルティンは、両親の願いを聞き入れるどころか父親の同意すら得ずに大学を離れ、エアフルトの聖アウグスチノ修道会に入った。