フランス王ルイ7世(10)
文字数 971文字
ヘンリー2世との争いは彼がイングランド王に即位してからも続き、ヘンリー2世はアンジューの支配を固める一方で外交に優位に立ち、1158年にジョフロワがブルターニュ領有を目論んだ矢先に急死すると、自らブルターニュ継承権をルイ7世へ要求してナントを併合、ルイ7世は両方とも承認した。また同年、ヘンリー2世の使者としてフランスに派遣された大法官トマス・ベケットと会談、ヘンリー2世とアリエノールの次男ヘンリー(後の若ヘンリー王)とルイ7世と2番目の妃コンスタンス・ド・カスティーユの娘で1歳にもならないマルグリットの婚約が成立、マルグリットの持参金としてヴェクサンを譲ることも約束した。
翌1159年にヘンリー2世はトゥールーズ伯レーモン5世にアキテーヌ公の宗主権を認めさせるためトゥールーズへ侵攻したが、こちらはウスタシュの未亡人だった妹コンスタンスがレーモン5世と再婚していた関係でヘンリー2世の侵攻を妨害。撤退させた。ただし、レーモン5世は1173年にヘンリー2世に臣従している。
アリエノールはヘンリー2世と野望を共有し、当時息子の無かったルイ7世無き後にイングランド王国とフランス王国がヘンリーの手に入る未来を夢想していたが、1165年にルイ7世が3番目の妃アデル・ド・シャンパーニュとの間に息子フィリップを儲けたため叶わなかった。また、先立つ1160年にルイ7世は政略結婚を通じてシャンパーニュ伯領を治めるブロワ家に接近、アリエノールとの間の娘マリーとアリックスをそれぞれシャンパーニュ伯アンリ1世・ブロワ伯ティボー5世兄弟と婚約、自身もシャンパーニュ伯兄弟の妹アデルと結婚することでプランタジネット家を牽制することを狙った。ヘンリー2世・アリエノール夫妻も対抗して同年にヘンリーとマルグリットの結婚式を挙げ、ヴェクサンを勝手に領有したりしている。