コンピエーニュ包囲戦(1)
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コンピエーニュ包囲戦は1430年5月23日にフランス・コンピエーニュで起こったフランス王国とイングランド王国・ブルゴーニュ公国連合軍の戦いである。連合軍の攻撃からコンピエーニュを守りきったフランス軍の勝利に終わったが、フランスのジャンヌ・ダルクが郊外の小競り合いでブルゴーニュ派の捕虜となったため、彼女が参加した最後の軍事行動になった。包囲戦自体は小規模なものだったが、百年戦争におけるフランスの救世主で最もカリスマ性のある指揮官だったジャンヌの喪失は、政治的にも軍事的にも大事件だった。
百年戦争の間、フランス国内ではブルゴーニュ派とアルマニャック派が対立していた。ブルゴーニュ派を率いていたブルゴーニュ公フィリップ3世はイングランドと、このアングロ・ブロギニョン同盟はフランス北部のほとんどを征服するまで勢力を伸長していた。ところが、1429年にアルマニャック派の重要拠点のオルレアンの包囲戦に失敗して以降、ロワール地方において、ジャンヌとアランソン公ジャン2世が率いるフランス軍によって同盟軍は連敗を喫していた。
1429年6月のパテーの戦いでイングランド軍を撃破したフランス軍は北東に進軍し、ランスで王太子シャルルはフランス王シャルル7世として戴冠した。フランス軍の進軍経路にあった町々は抵抗せずに投降した。パリ北方にあるコンピエーニュはこのルートから外れていたが、戴冠式直後にブルゴーニュ派の支配から脱してシャルル7世に忠誠を誓った。
1430年、フィリップ3世がコンピエーニュ包囲を計画しているという情報がフランス宮廷に伝わってきた。シャルル7世の宮廷は当初クレルモン伯シャルルを使者としてコンピエーニュの町に送り、町の支配権は正式にブルゴーニュにあるので、降伏して町を引き渡すように説得しようとしたが、住民らは猛反対した。同時に、町のフランス軍守備隊も防戦の準備を始めた。
ブルゴーニュ派は、まずリニー伯ジャン2世が4月4日に軍勢を率いて出立し、22日にはフィリップ3世がペロンヌを出た。また、ブルゴーニュ派と同調していたイングランド軍は、9歳のヘンリー6世の摂政を務めるベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターがカレーにいて、イングランド王の上陸を待っていた。フィリップ3世の戦略は、オワーズ川流域の諸都市を奪還するというもので、当時アングロ・ブロギニョン同盟の支配下にあったイル=ド=フランスとパリの防衛を重視していたベッドフォード公もこれを支持した。シャルル7世5月6日になってようやくコンピエーニュの戦略的重要性に気付いた。