マルティン・ルター(10)
文字数 1,145文字
ルター不在の状況には深刻な弊害が伴うことになった。ヴィッテンベルクではカールシュタットら過激派がリーダーシップをとっていたが、ツヴィッカウから再洗礼派の指導者がやってきたことも重なって、教会の破壊から始まって市内が無法状態の様相を呈するようになった。
1522年5月7日、見かねたルターが一年の沈黙を破ってヴィッテンベルクで人々の前に再び姿を現し、数回にわたる説教で過激派を糾弾、暴力を伴う改革を否定し、行き過ぎを警告した。ルターはここで新しい典礼の祭式を定め、説教や著述活動を続けた。
人文主義の大家であるエラスムスとルターの間の関係は、当初どちらも距離を置いたものだった。エラスムスの人文主義研究はルターの説に大きな影響を与えたものの、ルターもエラスムスもどちらもお互いの説が自らと違うところを目指していることを知っていた。この違いはやがて1524年から1525年にかけての論争として表面化し、この結果人文主義と宗教改革の関係は冷却化することになった。
聖書には論拠はなかったが、カトリック教会では伝統として聖職者の独身が守られてきた。そのため司祭であったルターも独身生活を続けていたが、徐々にその意義について疑問を持つようになった。ルターは肉体的欲望そのものは罪であり悪いことであると考えていたが、結婚によって肉体的欲望は正当化され罪にならなくなると考えるようになった。また修道者のように神のために結婚しないことをよいものであると認めていたが、その反面、常に肉体的欲望に悩まされるなら結婚するべきだと思うようになった。結果としてルターは数多くの修道者たちに結婚を斡旋するようになった。自身も1526年6月、41歳の時にカタリーナ・フォン・ボラという15歳年下で26歳の元修道女と結婚し、三男三女をもうけた。家庭は円満で、一家は以前ルターが暮らしていた修道院の建物に住んでいた。