ボードゥアン3世(5)
文字数 1,455文字
1152年、ボードゥアン3世は十分に成長し切っており、もはや摂政の助けを必要としていなかったため、彼は自身で政治的問題に取り掛かるようになった。彼はかつては政治に関心をほとんど示していなかったものの、このころには自身の国王としての権威を要求するようになっていたのである。ボードゥアンの摂政としてこれまで政治を取り仕切っていたメリザンド王妃は、1150年より彼と対立を深め始め、またボードゥアン3世はエルサレム王国軍司令官マナセスによる自身の法的継承権に対する干渉に対して不満を募らせて非難の声を上げた。そして1152年、ボードゥアン3世はエルサレムのフルク総司教に対して、母親のメリザンドとは別に2度目の戴冠式を行うよう要求した。総司教は彼の要求を拒否したが、ボードゥアン3世は自らの手で戴冠し、月桂冠の冠を被ってエルサレムの大通りで祝賀パレードを敢行した。
ボードゥアンとメリザンドはこの問題をエルサレム高等法院(または王立議会)に委任することに同意し、結果、エルサレム王国を両者の間で分割するよう取り決められた。ボードゥアン3世はガリラヤ・アッコ・ティールを含む王国北部を保持し、一方メリザンドはユダヤ・サマリア・ナーブルス、そしてエルサレムを含む王国南部を領有することとなった。また王国の軍司令官マナセスや、メリザンドの支配のもとでヤッファ伯国を有していたアモーリーはメリザンドを支援する側に回った。メリザンド・ボードゥアンの両者は、この取り決めに不満を抱き、ボードゥアン3世に至っては王国分割処置の影響でエルサレム王国の国力低下を危惧し、王国全土の一元統治を望んでいたとされるが、内戦を避けるためにメリザンドはこの処置を受け入れたのである。
しかし数週間後、ボードゥアン3世は王国南部に侵攻を開始した。メリザンドを支援していたマナセス将軍はミラベル城でボードゥアンに敗れて亡命し、ボードゥアンはナーブルスを早急に占領した。これ以上の困難を避けるため、エルサレム市民は城門を開放し、メリザンドとアモーリーはダビデの塔に逃げ込んだ。ダビデの塔の包囲と同時に、ボードゥアンと聖職者は会談を重ね、メリザンドとの休戦条約が取り決められた。メリザンドは協定により助命された上でナーブルスの領有が認められた。そしてボードゥアン3世はマナセス将軍に代わりトロン領主オンフロワ2世をエルサレム王国軍司令官に任命した。
1154年までに、ボードゥアン3世とメリザンドは講和し、ボードゥアンは機敏にも母メリザンドの優れた政治的手腕を見抜き、彼女を重用し続けた。しかし同時にボードゥアン3世は、エルサレム王としての諸侯に対する自身の権威を取り戻した。メリザンドは引退していたものの、王宮と王国政府における強力な影響力を保持し続けたとされており、ボードゥアンが遠征でエルサレムを留守にしている間などには摂政として王国の政治を取り仕切っていた。