ティコ・ブラーエ(8)
文字数 920文字
ティコはしばしば学生と妹のソフィーア・ブラーエの助けを受けながら、精密な観測を続けた。1574年、ティコは1572年のヘアヴェウ修道院での最初の観測情報を公表した。彼はその後、天文学の講義を始めたが、1575年の春にデンマークを去って国外周遊に出た。彼は最初にヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム4世を訪れ、その後フランクフルト、バーゼル、ヴェネツィアを訪れた。
ティコが帰国するとフレゼリク2世はティコの家柄に相応しい地位を与えることでその献身に報いたいと望み、ティコにハマスフース城やヘルシンボリ城のような軍事的にも経済的にも重要な場所の支配者となるように申し出た。しかしティコは科学を探求することを好み、領地経営を行う地位に就くことを嫌がった。
彼は友人のヨハネス・プラテンシスに「私は我らが慈悲深き国王陛下が寛大にも勧めて下さったいかなる城の主の地位も望んでいなかった。私はこの地の社会、慣習のあり方、その他のデタラメが気に入らない」と書き送っている。