バレンシアの歴史(1)
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イベリア人はこの土地をエデタニアと呼んだ。紀元前138年、約2,000人のローマ人植民者がこの地にワレンティア(強さ、活力の意味)を建設して定住した。ワレンティアは典型的なローマ都市であり、河川が海にそそぐ位置にあり、ローマ街道で帝国の首都と結ばれた。
紀元前75年にはポンペイウスとセルトリウスの争いによって破壊されたが、ワレンティアは約50年後に大規模インフラ計画とともに再建されると、1世紀半ばまでには急激な都市成長を経験した。地理学者のポンポニウス・メラはワレンティアをヒスパニア・タラコネンシス属州有数の都市と呼んでいる。しかし、3世紀頃に衰退した。その後4世紀にキリスト教化が起こった。
数世紀後、ゲルマン人のイベリア半島への侵入と、ローマ帝国政権の崩壊による支配者の空白状態が同時期に起こった。554年にはイベリア半島南西部にビザンツ人が侵入し、625年にビザンツ人が追放されると、西ゴート族の軍隊が登場し、古代ローマの円形闘技場を要塞化した。
714年にムーア人(ベルベル人とアラブ人)がイベリア半島に侵入すると、バレンシアは戦うことなく降伏し、サン・ビセンテ大聖堂はモスクに転換された。後ウマイヤ朝の初代アミールであるアブド・アッラフマーン1世は755年に都市の破壊を命じたが、何年か後には息子のアブドゥラがバレンシア地方全体に対して自治規制を規定した。10世紀には活発な交易活動が理由でバランシヤと呼ばれるようになった。
交易が盛んな場所は栄えるのですね。私はアラゴン連合王国の王としてカタルーニャもバレンシアも持っていたのに、なぜか王国の財政は傾いて、死んだ時に王にふさわしい立派な棺を作ってもらうこともできませんでした。
1002年にこ後ウマイヤ朝の宰相であるアルマンソールが死去し、支配者の死去に伴う擾乱が起こった後、アル・アンダルスはタイファと呼ばれる数多くの小国に分裂した。そのうちの1つがバレンシアのタイファである。
11世紀のバランシヤはバレンシアのタイファの勃興によって生まれ変わった。そしてカスティーリャ人貴族のエル・シッドはキリスト教徒とムーア人を組み合わせた軍隊でバレンシア地方に入り、1094年から1099年7月までのバレンシアはエル・シッドの統治下にあった。
アラゴンにとってはエル・シッドは英雄ではない。余の祖父、アラゴン建国の祖ラミロ1世はサラゴサ王国とカスティーリャ連合軍との戦いで戦死した。その時カスティーリャ軍にはエル・シッドもいた。1063年のことだ。