ティコ・ブラーエ(19)
文字数 844文字
1599年、彼は神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の後援を得て、宮廷天文学者としてプラハへ移った。ティコはプラハから50キロメートル離れたベナーツキ・ナド・イゼロワの城の中に新しい天文台を建設し、そこで1年間研究を続けた。ルドルフ2世はその後ティコをプラハへ呼び戻し、彼はその死までそこで過ごした。プラハの宮廷ではティコの平民出身の妻とその子供も貴族の如く扱われていた。このようなことはデンマークの宮廷ではありえないことであった。
ティコは皇帝ルドルフ2世やオルドリヒ・ディサイトリオス・プルスコフスキー・フォン・プルスコフなどの貴族から資金的な支援を受けた。ティコは彼に有名な『Mechanica』を捧げた。支援の見返りとして、ティコは彼らのホロスコープを作り、パトロンたちのために出産のような出来事についての予言や天候の予測、1572年の超新星(しばしばティコの超新星とも呼ばれる)や1577年の大彗星のような重要な天文現象の占星学的解釈を提供した。
プラハにおいて、ティコは助手であったヨハネス・ケプラーと密接な関係をもって研究を行った。ケプラーはコペルニクス体系の正しさに確信を持っていた。そしてティコのモデルは間違っており、それがコペルニクスモデルにおける太陽と地球の位置の単純な「入れ替え」によって得られたと考えていた。二人はともにティコの正確な座標に基づく新しい星表の作成を行った。これは『ルドルフ表』として結実した。