スコットランド王ジェームズ1世(3)
文字数 1,116文字
1424年にジェームズ1世として正式に即位するとすぐ、ジェームズ1世は国王としての権威、権限を取り戻すための強硬策を開始した。まず、不在の間摂政を務めていたオールバニ公マードックの一族が摂政として王権を専横していたことを罪とし、1425年5月24日にマードックと2人の息子をスターリングのキャッスルヒルで処刑した。
ジェームズ1世は政策面でもスコットランドを厳格に統治し、多くの金融・法律の改革を行った。まず他国と交易するための外貨との交換はスコティッシュ・ボーダーズ内だけに限定した。また彼はスコットランド議会をイングランド風に改造しようとした。
さらに外交政策では1428年にフランスとの「古い同盟」を再開した。その翌年はフランスでジャンヌ・ダルクが登場したが、多くのスコットランド兵が彼女の許で戦っている。1436年の長女マーガレットとフランス王太子ルイ(後のルイ11世)の結婚式も同盟の一環である。
ジェームズ1世の政策全般は効果的ではあったが、多くの人の反感を買った。この反感が、治世後半にジェームズ1世の王位継承権自体を疑問視する声を増長させた。ジェームズ1世の祖父ロバート2世は2度結婚しており、その最初の結婚(ジェームズ1世の祖母エリザベス・ミュアとの結婚)の手続きが正しく行われなかったという疑惑が再燃したのである。正しいスコットランド王位継承権を、法的に疑問がある最初の妻との子孫が得るのか、それとも間違いなく合法的な2番目の妻との子孫が得るのか、議論が生じた。
国王に対する反感の渦巻く1437年2月21日夜、ロバート・グラハム卿率いるスコットランド人集団がパースの修道院に宿泊していたジェームズ1世を暗殺した。暗殺劇に関与していた者は次々と捕らえられ、1437年3月に首謀者としてジェームズ1世の叔父アサル伯ウォルターやその孫ロバートステュアート卿(2人ともロバート2世の2番目の妻の子孫)らが処刑された。