エドワード黒太子(3)
文字数 1,845文字
病に臥せっていた黒太子は戦場に出て指揮を執ることができず、イングランド支配下にあった城、都市は次々とフランス軍に奪回されていった。1370年に黒太子が無理を押して出陣したリモージュの包囲戦では開城させることに成功したが、以前にリモージュが無抵抗でフランス軍に開城した罰として住民3000人を虐殺した。
これによりイングランド軍への反発は一層強まり、各地で猛反攻を受けることになった。病が重くなって戦場に出ることもできなくなった黒太子は1371年に本国に帰還、黒太子がいなくなった後はゲクランがアキテーヌ侵攻作戦を展開して次々と領土を奪い取り、イングランドはアキテーヌの大部分を失いボルドーとバイヨンヌ周辺しか保てなくなった。
イングランドに帰国してからは、父に代わって国政を牛耳っていた弟のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントから実権を取り戻し、1376年4月の善良議会の開催を後押しして国政改革に着手したが、同年6月に45歳で赤痢(またはペスト)により病死した。父も翌1377年に死去し、王位は黒太子の息子リチャード2世が継いだ。
赤痢ではなく暗殺かもしれません。フアン1世は狩りに行って突然亡くなっています。まだ46歳の若さで病気がちでもなかったフアン1世が突然亡くなるのはどうもおかしい。暗殺だった可能性もあります。狩りの時なら見張りもいないし近くに医者もいない。暗殺するチャンスです。毒を入れた飲み物を飲ませれば・・・
そうですよね。イングランドやフランス、そしてカスティーリャなどの王家に比べて、アラゴン王家は本当に争いや陰謀、残虐な事件が少ないです。だから黒太子が住民3000人を虐殺したと聞いて驚きました。イングランドやフランスは王家の争いが凄まじいから、もう人を殺すことに罪の意識も感じなくなっているのでしょうか?
僕は最初にラミロ2世の話を聞いた時、なんて怖ろしい王様かと思ってしまいました。同じキリスト教徒の貴族を騙して集め、斬首の命令を出して、その首を鐘のように高く積み上げたからです。でもラミロ2世は反乱を起こした貴族をそうやって処罰することでアラゴンを守ったのです。黒太子の場合はそうではありません。自分が病気になって苦しみ、経済的にもうまくいかなくて領土が奪われていました。でもだからといって個人的な苛立ちや恨みを住民に向けて虐殺する、これは許されることでしょうか?
歴史の中ではひどい侵略や虐殺を行っても、その国を発展させた、歴史を変えたという理由で英雄や教祖として崇められている人はたくさんいます。エドワード黒太子も英国で、そして日本でもどちらかというと英雄視されています。