フレゼリク2世(デンマーク王)(1)
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フレゼリク2世はなによりもまず、デンマークのルネサンスを代表する支配者である。父王と異なって強く軍事に魅了され、すでに若いころにドイツ(神聖ローマ帝国)の好戦的な領邦君主たちと友誼を交わしていた。王位継承後ほどない1559年の夏、ディトマルシェン征服により、初めての勝利を得た。
フレゼリク2世の治世における最大の対外的衝突は、1563年から1570年まで続いた北方七年戦争であった。この戦争でフレゼリクは、精神異常を来していた従兄エリク14世治めるスウェーデンの征服を試みたが、失敗に終わった。戦線は拡大し、スウェーデンによってスコーネ地方を蹂躙され、危うくノルウェーを失うところまで追い込まれるという、きわめて代償の大きい消耗戦に突入する。この戦争の間、王は自ら軍を率いて戦場に赴いたが、大した成果も挙げられず、側近の貴族達との関係まで悪化する有様であった。しかしスウェーデン国内の情勢不利が利し、王国執事官(実質上の宰相)を務める有能なペダー・オクスのデンマーク支配権の掌握によってようやく状況は安定する。戦争は、戦前の領地関係を維持するという和平締結により集結し、デンマークの面目は一応保たれたが、同時にその軍事的限界も明らかになった。
北方七年戦争の後のフレゼリクは、実戦を行わずに、なんとか海軍統治者としての名声を得ようと試み続けた。外交戦略としては、積極的にプロテスタント勢力の精神的支援を得ようとしつつ(独身時代にはイングランド女王エリザベス1世に求婚し、ガーター勲章を贈られている)、同時に絶対中立を維持した。内政に関してはペダー・オクスやニルス・カース、アリルド・ヒュイトフェルト、クリストファ・ファルケンドルフなど経験豊かな側近が差配した。
フレゼリク2世はその治世中、カルマル同盟によって領有していたグリーンランドへ遠征したが、デンマーク領と宣言しただけで、何ら統治を行うことなく撤退している。この時代、デンマーク人がグリーンランドへ行き植民した、という史実はない。本格的にデンマークの支配が及ぶのは18世紀以降を待たなければならなかった。