フィリップ・ダルトワ

文字数 1,312文字

ジャン・ダルトワの子でロベール3世・ダルトワの孫に当たるフィリップ・ダルトワを紹介します。作品集は下の画像から入って下さい。
フランス王国大元帥フィリップ・ダルトワ、ジャン=バティスト・モゼス画、1835年と書いてありました。
アルトワの相続で問題を起こしてフィリップ6世と対立し、イングランドに亡命してエドワード3世をそそのかして百年戦争の原因を作った男の孫がフランスの大元帥になるとは、随分出世しているではないか。
そうですよ。子や孫の代で貴族の称号を取り戻しただけでなく、大元帥にまでなったというのは立派だと思います。
フィリップ・ダルトワ(1358年ー1397年)は百年戦争期のフランス王国軍総司令官(1392年ー1397年)ウー伯(在位1387年ー1397年)ウー伯ジャン・ダルトワとその妻イザベル・ド・ムランの間の三男。
1383年、イングランド軍に占拠された町ブルブールを奪取した。その後、エルサレムへの巡礼に赴くが、その地でエジプトのスルタンの捕虜となる。ブシコー元帥とヴェネツィア共和国政府の仲介により、釈放された。1390年、チュニジアでブルボン公ルイ2世の指揮するマーディア十字軍に参加した。
若い時にかなりいろいろな体験をしていますね。
1392年1月28日にパリにおいて、ベリー公ジャンの娘でオーヴェルニュ公領の女子相続人であるマリーと結婚した。シャルル6世王の従妹で資産家のマリーとの結婚はフィリップの宮廷における地位を高めた。同年、オリヴィエ・ド・クリッソンの失脚に伴ってフランス大元帥に抜擢されたのも、義父と妻の影響力の大きさゆえであったとされる。
どんなに義父と妻の影響力が大きくても、実力のない者が大元帥に抜擢されたりはしないだろう。
1396年、ハンガリー王ジギスムント(後の神聖ローマ皇帝)およびヌヴェール公ジャン・サン・プール(後のブルゴーニュ公)を指揮官とする対オスマン帝国の遠征軍に多くのハンガリー人、フランス人貴族と一緒に参加した。遠征軍はニコポリスの戦いで壊滅状態となり、フィリップは他の大勢のキリスト教徒と一緒にトルコ人の捕虜となった。
ブルゴーニュのバカ息子(無怖公)の無謀な戦い方で、ニコポリスの戦いでは多くの戦死者や捕虜が出ました。それなのにあのバカ息子は釈放されてすぐパリに戻り、またバカなことしています。
フィリップは身代金を払って釈放を待っている間に、ミハルッチュクの監獄で獄死した。解放予定日の9日前のことであった。妻のマリーは1400年、ブルボン公ジャン1世と再婚した。
せっかくフランスの大元帥になれたのに、活躍する前に捕虜になって獄死するなんてあまりにも気の毒です。これもみなブルゴーニュのバカ息子が悪いのです。
妻マリーとの間に4人の子女をもうけた。

・シャルル(1394年ー1472年)ウー伯

・フィリップ(1395年ー1397年)

・ボンヌ(1396年ー1445年)1413年にヌヴェール伯フィリップと結婚、1422年にブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンと再婚

・カトリーヌ(1397年ー1420年)1416年、カランシー領主ジャン・ド・ブルボン(ラ・マルシュ伯ジャン1世の三男)

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色