タンクレード(3)
文字数 822文字
1100年、アンティオキア公の地位に納まっていたボエモン(ボエモン1世)は、北方への遠征の際、メリテネ(現在のトルコ南東部マラティヤ)でテュルク系国家ダニシュメンド朝とのメリテネの戦いに敗れ捕虜となった。ボエモン1世の甥であるタンクレードはアンティオキアに赴き、アンティオキア公国の摂政として留守を守ることになる。
タンクレードはセルジューク朝系の政権や東ローマ帝国からキリキアやアレッポなどの領土を奪い、アンティオキア公国の領土を拡大させた。東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世は、アンティオキア公国のこれ以上の拡大を防いでタンクレードを自分の管理下に置くべく、アンティオキアの北ではダニシュメント朝と結び、アンティオキアの南では十字軍国家のトリポリ伯国の成立を助けるなど、10年以上にわたり圧迫を行った。しかし結局タンクレードはその後も東ローマ帝国に従うことはなかった。1103年にボエモン1世が釈放されるとタンクレードは実権を失う。
1104年、十字軍国家エデッサ伯国のボードゥアン2世およびアンティオキア公国のボエモン1世は共同でユーフラテス川の東方へ遠征するが、ハッラーンの戦いでモースルなどのセルジューク朝系政権に大敗した。これを機会と見たアレクシオス1世はアンティオキア公国に攻撃を行い、地中海側のラタキア港を回復し、アルメニア人らの助力も得て、キリキアを取り戻した。東ではアレッポのシリア・セルジューク朝系の君主リドワーンが勢力を回復し、シリア内陸部をアンティオキア公国から奪還していった。