ヤン・フス(6)
文字数 1,124文字
3人の教皇が並立するという教会大分裂を収束させ教会を正常化するために、1414年11月1日にコンスタンツ公会議が招集された。公会議を招集したローマ王兼ハンガリー王ジギスムントはヴァーツラフ4世の弟で子供の無い彼の後継者にあたるが、国から異端者を無くしたいと強く願っていた。
余は後継者はいなかったが、1414年の時点ではまだ元気でボヘミア王であった。異母弟のジギスムントが結局最後はボヘミア王になるのだが、この時はまだハンガリー国内がゴタゴタしていて、ボヘミアの問題に関わるような余裕はなく、ローマ王として公会議を成功させたいと考えていたのだと思う。
フスのいつもの説教から判断すると、彼は明らかに自分の教義(つまりウィクリフの教義)を教会の教父達に説こうとしていた。教義の正統性を示す十分な供述を準備し、自らの死を予見したかのように遺書をしたためた後、1414年10月11日、フスは旅立った。