バル公ロベール1世(2)

文字数 1,398文字

バル公ロベール1世についての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
1356年9月19日、ポワティエの戦いでジャン2世がイングランド軍の捕虜になると、後ろ盾を失った大叔母ジャンヌは摂政を退けられ、母ヨランドがロベールの摂政に復帰した。ロベールは同年12月に騎士叙任を受け、1359年11月8日に親政を始めた。ロベールは1364年5月14日に行われたシャルル5世のランスでの戴冠式、1380年11月4日のシャルル6世のランスでの戴冠式をそれぞれ金銭的に援助した。また、シャルル5世が1374年に行ったイングランド軍をノルマンディー地方から駆逐するための遠征にも、何度か参加している。
戴冠式の時に金銭的に援助したということは、バル公ロベール1世はかなり裕福だったということですね。
ジャン2世が捕虜になったため、王家は財政的に苦しかったのかもしれません。
そういう豊かな領土から来た王妃だから贅沢をしてアラゴンの財政を傾けたのではないか。
豊かなままだったらよかったのですが、その後バル家にもいろいろあったようです。
1401年、ロベール1世は存命中の最年長の息子エドゥアールを後継者に指名した。これはロベールの早世した長男アンリの息子ロベールの相続権を無視した決定だったため、孫のロベールは意義を唱えたが、パリ高等法院は孫ロベールの訴えを1409年までに退けた。
このあたりの事情については別に詳しく紹介します。
シャルル6世の狂疾がひどくなり、オルレアン公ルイとブルゴーニュ公ジャンが国の主導権をめぐって対立すると、ロベール1世はオルレアン公を支持し、彼がブルゴーニュ派に暗殺された後も親オルレアン派であり続けた。晩年は痛風に苦しみ、歩行困難になった。
バル公ロベール1世はずっとオルレアン公を支持し、アルマニャック派だったわけですね。
1364年、フランス王ジャン2世の娘マリーと結婚し、間に11人の子女をもうけた。

・アンリ(1362年ー1397年)マルル領主

・ヨランド(1365年ー1431年)1438年、アラゴン王フアン1世と結婚

・フィリップ(1372年ー1398年)

・シャルル(1373年ー1398年)ノジャン=ル=ロトルー領主

・マリー(1374年ー?)1384年、ナミュール侯ギヨーム2世と結婚

・エドゥアール3世(1377年ー1415年)バル公

・ルイ1世(?ー1431年)ヴェルダン司教、枢機卿、バル公

・ヨランド(?ー1421年)1400年、ユーリヒ=ベルク公アドルフと結婚

・ジャン(1380年ー1415年)ピュイゼイ領主

・ボンヌ(?ー1400年)1393年、サン・ポル伯・リニー伯ワレラン3世と結婚

・ジャンヌ(?ー1402年)1393年、モンフェッラート侯テオドーロ2世と結婚

バル公ロベール1世にはたくさんの子がいましたが、長男アンリと次男フィリップはニコポリスの戦いに参加してオスマン帝国軍の捕虜となり、異国の地で客死し、四男エドゥアールと六男ジャンも1415年のアジャンクールの戦いで戦死しました。
ニコポリスの戦いはブルゴーニュのジャン1世が突撃を主張してオスマン帝国軍にボロ負けし、アジャンクールの戦いもアルマニャック派とブルゴーニュ派の争いの中ヘンリー5世に責められました。私の妻ヨランドの兄弟の4人がこの2つの戦争で亡くなっているのです。ブルゴーニュ公のバカ息子ジャンは許せないです。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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