レオ10世(4)
文字数 991文字
1521年10月11日、ルターを非難したイングランド王ヘンリー8世に「信仰の擁護者」の称号を授けたが、後にヘンリー8世は離婚問題で教皇クレメンス7世と対立した果てにイングランド国教会を創設、皮肉にもプロテスタントの一派を形成していった。ただし、教義自体はカトリックとの共通点が多く、称号も後のイングランド王に代々受け継がれていった。
同年、45歳で急死した。風邪をこじらせた、あるいはマラリアのためとされるが、毒殺説もある(1517年にも暗殺計画が発覚している)また暴飲暴食が原因など様々な死因が伝えられているが、実際は病弱であった。次の教皇は1522年にハドリアヌス6世が選出されたが、わずか1年で死去、従弟のクレメンス7世が1523年に教皇になった。
レオ10世は浪費したりメディチ家の権力拡大を行ったり、贖宥状を発行したりして批判されていますが、それは1人で何もかも変えてしまったのではなく、今までのカトリックの歴史でも教皇や高位聖職者が特別な力を持って世俗権力と結びつき、歴史を変えてしまったということは何度もありました。十字軍が始まった時、教皇はそれが神の意志であると演説して王侯貴族から民衆までみんな熱狂し、エルサレムではユダヤ教徒、イスラム教徒が大勢虐殺されました。神はキリストを通じて、人間が互いに争い、殺し合って滅びないための知恵を人間に伝えようとしました。でも人間はキリストの言葉、そして神の意志を自分たちに都合のいいように解釈し、教皇や高位聖職者が権力を持つようになってしまいました。教皇が世俗権力と関係して行ってきた矛盾がレオ10世の時に頂点に達して、その結果宗教改革が始まったように思います。